「ショット/切り返しショット」のオルタナティヴ 

話題としてはやや古くなるが、ショット/切り返しショットをめぐる刺激的な批評文が奇しくも連続して発表された。廣瀬純「ショット/切り返しショット、ゴダール/レヴィナス」(『nobody』29 2009: 102-119)と、山城むつみドストエフスキー『未成年』の切り返し」(『群像』4月号 2009: 110-156)である。その注からわかるのだが、山城は自分のエッセイの発表前に廣瀬のエッセイ(講演記録を加筆修正したもの)を読んでいるようだ。 

廣瀬の論考は、ひと言でいってしまえば、レヴィナスのいう「顔」の倫理、すなわち「フェイス・トゥ・フェイス型のショット/切り返しショット」に対する批判として、ゴダールの「バック・トゥ・バック型のショット/切り返しショット」を位置づけ、ゴダールによるレヴィナス批判の徹底化と世俗化をめざすものだ。映画の撮影技法の問題が、レヴィナスにおいては集団のあり方やその集団における生のあり方をめぐる思考と直結しているのに対し、レヴィナスを批判するゴダールの(とりわけ『アワーミュージック』の)音―映像は、オルタナティヴな思考そのものとしてレヴィナスに揺さぶりをかける。

細かい点だが、ひとつ気になったのはゴダールの『男と女のいる舗道』について言及されているところ。ゴダールは、「ショット/切り返しショット」がレヴィナスのいうように「フェイス・トゥ・フェイス」によってモンタージュされるならば、それは「同一のもの」の反復となってしまい、二つのものの差異が捉えられないという。いいかえれば、そうした反復においては安定した自己同一性が保証されており、現に存在する自己同一性の揺らぎすなわち「運動」が排除されている(そしてちょっと飛躍するけれど、自己同一的な「顔」と「顔」の対峙が殺戮の20世紀を生み出してきた)と。二人の人物の差異=運動をフレーム内に導入するなら、個々の人物を背後から別々の固定ショットで、つまりバック・トゥ・バックによる「ショット/切り返しショット」で撮ってみたらどうだろう、そうゴダールは『男と女のいる舗道』の冒頭に近いあるシーンで提案しているのだと廣瀬は語る。*1 そのシーンとは、ヒロインのナナ(アンナ・カリーナ)とポール(アンドレ・ラバルト)がバーに並んで腰掛け会話をしている場面で、廣瀬のいうとおり、ナナとポールは同一のフレーム内には映し出されず、二人を個別に背後から映したショットが切り返される。しかし、この場面の記憶が曖昧だったので確認のためにDVD を見ると、バーのカウンター越しにある大きな鏡にナナの顔がほぼ正面から写っている。その鏡には、ちらちらとポールの顔も写っており、その場合には、二人が同一フレーム内に「サイド・バイ・サイド」で写っているのだ。その鏡像の顔は小さくて輪郭がぼやけているが、明らかにナナとポールのものだとわかる。廣瀬がこれに気づいていないわけはないのだが、あっさりと無視してしまってよいショットではないような気がする。レヴィナスの「フェイス・トゥ・フェイス型のショット/切り返しショット」を突き崩すはずのゴダール的「バック・トゥ・バック型のショット/切り返しショット」には、不可避的に「サイド・バイ・サイド型」の関係性が、つまりプラトンハイデガー的な共同体における関係性*2が亡霊のようにつきまとっているということを、このぼやけた鏡像は示唆しているのかもしれない。そう考えると、この「鏡像の闖入」はますます無視しがたいものであるように思えてくる。

山城エッセイは、ドストエフスキー『未成年』の現代性すなわち「映画性」を情動的な文章で説得的に語っている。詳しくはまた近いうちに。

女と男のいる舗道 [DVD]

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アワーミュージック [DVD]

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nobody 29

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*1:背中と背中の切り返しショットがなぜ差異=運動の導入につながるのかという点については、実際にエッセイを読んでいただくしかない。手抜きですみません。

*2:ここもわけわからないかもしれませんが、手抜きですみません。