いっしょにいるカモ 

現代思想』9月号を持って「せせらぎ公園」まで(例によって)自転車で行ってきた。




対立する様々な勢力が拮抗している場合でも、民主主義は〈多〉ではなく〈一〉を前提とする。対立する複数の勢力は、最終的には(投票を含む)議決によって「一つの」決定に従わざるをえないからであり、そもそも議決権ないしは投票権を持つ有権者の集合という〈一〉が形成されていなければ、そうした民主的決定すらありえないから。
ヴェルナー・ハーマッハーは、「民主主義についての講演のスケッチ――プロテスト可能性の発言(不)可能性」清水一浩訳(『現代思想』2010年9月号所収)において、民主主義の前提である〈一〉の形成をめぐって、ホッブズそして17世紀の宗教戦争の時代にまで遡行する。ホッブズによれば、いまだ「一つの」多数性でない群衆をなす人間たち〔multitude of men〕の統一性すなわち〈一〉は、そうした群衆を代理表象する一人の人間ないしは人格によって形成される。つまり、人民を代理表象するものの〈一〉が、代理表象される人民を「一つの」多数性とするということ。民主主義の本質は君主制なのだ。しかし、この措定された〈一〉は、自然成長的に与えられるものではない。ホッブズにとって「自然的なもの」は自然を破壊するものだけだからだ。民主主義の前提としての〈一〉は、根本的に措定されたものであり、公理〔Axiom 価値があると考えられるもの・信じられるもの〕なのである。公理として〈一〉を印づけることは、政治が存在しうるためには必ずなされねばならない先行−措定であり、対立し相争う様々な個人ないしは集団は、この公理としての〈一〉によって中立化され、パトローギッシュな利害関心を剥ぎ取られ、算術的計算の一要素へと還元される。だが、この還元・中立化は、(宗教戦争の時代に)対立する諸勢力の脱宗教化を意味しない。むしろそれは、政治の場における宗教的なものの膨張を促す。というのも、先行−措定としての〈一〉、公理としての〈一〉は、個々の信仰者にとっての「一つの」神という、プロテスタンティズムの原理そのものだからだ。
という感じて、民主主義とプロテスタンティズムの宗教性との本質的な同一性をめぐる議論から始まるハーマッハーのこの長大な論文、読み応え十分です。途中、デリダのメシア論と似たような主張も展開されていて食傷するかもしれないけれど、論文の最後でソローの「市民的不服従」を引きながら、民主主義の〈一〉を水平にずらしていくところはとてもわくわくした。

ソローが想像している〔国家と個々人との〕関係は、国家に対する個々人の従属関係・縦列関係〔Subordination〕ではない。(中略)むしろソローが想像しているのは、個々人の共属関係・並列関係〔Koordination〕、そして個々人と国家との共属関係・並列関係である。つまり個々人や国家が隣合わせに並び立つ関係である。(中略)個々人は、国家個々人でもなければ国家による個々人でもなく、つまり国家の服従者=主体〔Subjekt〕ではなく、国家の隣人である。
(前略)このような社会に、ソローが、正義という考えと、隣人および同胞としてのすべての義務とを結びつけることができるのは、その正義や義務が、彼の考えている近接性であり、したがって倫理的なものそのものであるからだ。それはすなわち並び立っていること、互いの傍らにいること、そして自らの傍らにいること〔自らを自覚していること〕そのものなのである。(243-44頁)

ドゥルーズガタリも『アンチ・オイディプス』で、全体の一部ではない部分、全体の横に並んでいる部分について語っていたっけ。それになりよりも、ゴダールの『新ドイツ零年』のエンディングにおける有名なナレーション、「国家の理想は一つになること、個人の夢は二人でいること」を思い出す。あのフィルムの光は素晴らしかった。

現代思想2010年9月号 特集=現代数学の思考法 数学はいかにして世界を変えるか

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