はもはもめけめけ 


増村保造と脚本家の白坂依志夫のコンビによる二本、『暖流』(1957年)と『最高殊勲夫人』(1959年)をラピュタ阿佐ヶ谷で。
『暖流』は、映画の舞台となる病院を正面からゆっくりトラックアップしていくショットで始まり、ほぼ同じ構図でトラックバックしながら病院の門が閉じるショットで終わる。これによって、病院の経営権をめぐる諍いも、病院の再建を請け負う主人公(根上淳)と院長令嬢(野添ひとみ)と看護婦(左幸子)の三者をめぐる恋愛劇も、病院の庭の素晴らしい木洩れ日も、「はもはもめけめけバッカヤロゥ、はもはもめけめけ、バカヤロッ!」と歌う、院長のどら息子(船越英二)の酔狂ぶりも、すべてがどこか現実離れしていて病的な「院内」の虚構であることが強調されているように思える。その典型が左幸子の突き抜けた狂騒的存在だ。左の根上に対する一途な思いは、彼女が乾いた痙攣的な笑い声を上げるたびに強度を増すかのようで、左が体育会的な作法でラーメンをすすっているときに、根上のプロポーズを野添が受け入れることを知らされても平然としていられるのは、左の恋情が「狂信」の域に達しているからではないかと思えてきて、そのラーメンの食いっぷりと相俟って妙に感動する。最初は野添に惹かれていた根上が最終的に左と結ばれるのは、左に根負けしたというよりも、「院内感染」の結果であるといった方がわかりやすい。だから二人が「治癒」の過程に入るとしたら、病院を再建した根上が”vanishing mediator”よろしく左と共にそこから追い出され、フィルムのエンディング・ショットで病院の門が閉じられた後、「現実」の側に移行してからだろう。つまり、この映画はそうした「現実過程」を作品世界から締め出しているということだ。ただ、病院を失い根上にふられた野添が、「職に就いてオールド・ミスになる」と決意するときだけは、「院内」の亀裂から外の「現実」が垣間見える。とすると、左と結婚することを根上から告げられた野添が「おめでとう」と言い残して砂丘のような所をひたすら走り去って行く様を、根上の後頭部を前景にして超ロングで捉えた素晴らしいショットは、この映画に「現実」が侵入した瞬間だったのだろうか。 
『最高殊勲夫人』についてはまたの機会に。