ゾンビの勝ち

ダークナイト』(クリストファー・ノーラン、2008)を目黒シネマで。う〜む。ヒース・レジャー演じるジョーカーは、何らかの利益を得るための悪ではなく、パトローギッシュな動機を一切含まない根元悪(悪のための悪)を体現する人物だとするなら、そうした根元悪は、原理的に至高善と区別がつかないはずなのだけれど、この映画における善と悪は、撹拌された後しばらくするとまた分離してしまう水と油であるかのように、卑小な水準において分離したまま対立し、かつ馴れ合っている。それは、バッドマンがいかに法からはみ出た存在であろうと変わらない。そうした「はみ出し的存在」は、どのみち法=秩序の維持に貢献する「構成的例外」なのだから(この点を含む id:shintak さんの二つの関連エントリーを参照)。そして、それはまさしく国際社会における9.11以後のアメリカの地位に等しい。悪から区別され、悪を必要とする正義を見つめる「切り返しショット」の不在は、ある種のアメリカ人にとっては心地よいものに違いない。ようするに、監督の志が低いのだ。
幸いにして、「ある種のアメリカ人」を居心地悪くさせるだろう、志の高いアメリカ映画が上映されている。『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(ジョージ・A・ロメロ、2007)のことだ。ゾンビ化していく世界をカメラで記録し続けるジェイソンの“Shoot me!”という台詞の二重性(俺を撃て、俺を撮れ)が胸に響くのは、それが映画そのものに対する「切り返しショット」になっているから。
〈追記〉本日22:00〜23:30にNHK教育テレビ土本典昭の特集が放映されます。