音楽のカッティング・エッジ

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 04月号 [雑誌]

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 04月号 [雑誌]

私が90年代後半から、オヴァル以後のいわゆる電子音響を折に触れて聴いてきたのは、ラップトップPCを使って組み立てられ解体される「ノイズ」が、今まで聴いたことのない「音楽」として、ハートだけでなく頭にも訴えてきたからだ。『InterCommunication』no.64 における渋谷慶一郎氏と佐々木敦氏の極めて刺激的な対談を読んで、なぜ最近音響系のCDを聴いても面白くないのかよくわかった。オヴァルを極北とする「ノイズ/サンプリング的な」方法論が限界まで来てしまって、いまや支配的なのは「情緒主義」。クリスチャン・フェネスを譬えに使えば、すでに古典といってよい『エンドレス・サマー』(2001年)のノイズの部分が切り捨てられ、ギターのメロディだけが受けているような状況なのだ。こうした二項対立的状況において「第三項音楽」というコンセプトを掲げる渋谷氏の試みは貴重だ。渋谷氏は、Jポップについてこんなことをいっている。

Jポップだと、Perfume とか Capsule みたいな存在が希望だと、常々僕は言ってるわけ(笑)。彼(女)らはメロディがどうとか歌詞がいいとか悪いとかいうレベルでやっていない。というか音圧と高域で脳にどうアディクトさせるかということだけにフォーカスして作っている。(中略)例えば彼らが影響受けていると思われるフレンチ・エレクトロなんかと比べても徹底されているのは波形を見れば明らかで、これはもはや音楽として適正な処理とかいう範疇じゃない。好き嫌いは別としてこういう極端さは現象として面白いし、Jポップ全体を見渡すと、コブクロみたいなひらがなで「うた」とか書くような、いわゆる泣けるのがどうのこうのというのが脈々と続いているわけでしょう。情緒最優先主義が。僕は音楽のカッティング・エッジと言われるような領域が極端に言えばそういう「いいよね」傾向になるのは辛いなと思っているんです(p.28)。

渋谷氏は「コプクロ系のJポップ」を否定しているわけではもちろんない。彼が批判しているのは、音楽シーンの一番「とんがっている」ところにいると思っている人たちの、いわゆる「茂木健一郎化」。最近の茂木健一郎氏の「文学性」を批判する佐々木氏の発言には完全に同意します。

エンドレス・サマー~デラックス・エディション

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ATAK010フィルマシン・フォニックス

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