リチャード・フライシャーの慎み深さ

hidexi2007-10-14


昨日13日、『夢去りぬ(The Girl in the Red Velvet Swing)』(リチャード・フライシャー監督、1955年)と、映画批評家クリス・フジワラ氏のレクチャー(英語、通訳付き)をアテネ・フランセ文化センターで。
字幕なしの上映だったが、今の日本で『夢去りぬ』がスクリーンで観られたことは幸運だった。というのは、覆面上映だったので、映画が始まるまでフライシャーの何が上映されるのかわからなかったから。 

で、『夢去りぬ』だが、私の漠然とした印象として、このフィルムに限らずフライシャーの作品は、息もつかせぬ物語の展開があるわけでもないのに、なぜか退屈しない。かなり疲れているとき観ても不思議と居眠りすることがないのだ。

上映後行われたフジワラ氏のレクチャーは、こうした私の印象を説明してくれるものだった。フジワラ氏によれば、フライシャーの特徴を端的に示す言葉は「外在性 externality」である。つまりフライシャーは、登場人物の内面を描くのではなく外面的な出来事を写す、したがって映像の連鎖が意味の因果律から解き放たれているので、次に何が起きるのかわからないというのだ。フライシャーは、単に出来事を見せる、というか、出来事を見せていることを見せる(He is showing “showing”.)。だがら観客は、意味のネットワーク内に配置できない出来事の過剰性を目にして居心地の悪さを感じる、とのこと。

ただ、どうなんだろう。フジワラ氏が「見せていることを見せる」という場合の「見せる」という「積極性」は、フライシャーにあっては希薄であるような気が私にはする。むしろ、「見せる」ことすら消してしまうような「否定性」、いや、そうした「否定性」すらうざいものとして消去しつづけようとする「純粋さ」が、フライシャーの「フライシャー性」ではないかと。でもこれは、フジワラ氏と同じことを反対側から言っているだけなのかもしれない。

それにしても、蓮實重彦が30年も前にフライシャーの「透明さ」について、「映画的饒舌とは対蹠的な、欠語と沈黙による無=意味への志向をも人目に隠す慎み深さをそなえている。」(144頁)と書いていたことを思い出すと、御大はやっぱりすごいんだなぁと、バカみたいに感じ入るしかないのであった。

映像の詩学

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