記号と女 

昨日は近所の図書館で、読むのを怒慢、いや我慢していたいろいろな雑誌をまったり読もうと思っていたのだが、寝坊してしまい、アテネの特集「ストローブ=ユイレの軌跡」に行く時間が迫っていたので、読みたいところだけ大急ぎでコピーしてきた。

それらのコピーの中で刺激的だったのは、『現代思想』11月号(特集=〈数〉の思考)の田崎英明さんのインタヴュー「記号と思想」だ。田崎さんが繰り返し言っているのは、(数学的)記号を操作することによって現実が変わっていくということ。たとえばラカンでいえば、何を意味しているかわからないけれどとにかく何かを意味している記号(シニフィアン)が、人と人との間に投げ込まれると、それまでの関係に変化が起きる。これは、「精神分析とは談話療法である」というテーゼにもつながっている。つまり、語ることを通して分析主体の現実が変わっていくということだ。
ただし、急いで次の二点を強調しておく必要があると思う。まず、記号を操作するといっても、その記号体系、操作規則は、主体が恣意的に意味づけたり主意主義的に構築できるようなものではない、ということだ。この点を田崎さんは強調している。主体は、むしろそのような固有の論理を持つ規則に従うことによって主体となるのだ。次に、(田崎さんは明示的には語っていないが)操作=変形されるのはあくまでも記号であって、現実そのものではないということ。以上の二点に留意しないと、行き過ぎた工学的発想に傾いてしまう(id:hidexi:20070715 を参照)。 
しかし、記号の操作性だけでは説明できない「真(リアル)」というものがある。田崎さんは、ゲーデル不完全性定理を駆け足で説明しながら、記号の形式体系から定理として導き出せない「真」があることを、バディウの議論につなげている。バディウは、既存の形式体系や操作性に新たな何かを付け加えることが「革命」になるという。それは、証明できないが「真」であるとしかいいようのない何かが到来することだと。私たちは、すでに或る形式体系・操作性に否応なく巻き込まれている。その巻き込まれているという事実の解明で終わらずに、主体がそうした「巻き込まれ」からはみだしてしまう瞬間が現実にあり、その「現実」をどう捉えるかということを、バディウは考えているのだろう。ジジェクはやはり、バディウとともに読まれるべきだと思った。 

図書館でコピーしてきたものでほかに面白かったのは、ちょっと古くなるけれど、フリーペーパーの『WASEDA bungaku』vol.014 2008 fall. の川上美映子と内田春菊との爆笑対談。「女」を感じました。

現代思想2008年11月号 特集=〈数〉の思考

現代思想2008年11月号 特集=〈数〉の思考