木洩れ日と記憶

hidexi2007-11-02


自宅から最寄り駅まで行くのにバスを使っている。バス通りの途中に短い桜並木があり、春と秋には、晴れた日の午前中にバスに乗ると、並木を通るときに木洩れ日がバスの車内を流れる。光と影のまだら模様が車内を通り抜けるのに、かつては10秒ほどかかったと思うが、数年前に道路拡張工事のため桜の木が半分くらい切り倒されてしまったので、木洩れ日の通過時間は、いまでは5秒にも満たない。とはいえ、この数秒は、一日のうちで私のもっとも好きな時間だ。

バスが静かに並木道に入る。すると光と影が戯れながら、車内の床や座席や乗客の頭や背中を走ってゆく。5秒ほど経ち木洩れ日の流れが途切れる瞬間、私は目を閉じて、桜並木がいまよりも長かった頃の、残りの5秒を瞼の裏に蘇らせる。それが、5秒前の残像なのか、数年前の記憶の断片なのか、私にはわからない。確かなことは、持続しているかに見える木洩れ日の流れのなかに、或る切断線=縫い目が入っているということだ。目を閉じるという行為が、桜の木の切断という「出来事」を反復し、現在の5秒と記憶の5秒とを、隔てると同時に縫い合わせてもいる。その切断=縫合は、目を閉じるという行為は、私の意志によるものだろうか。むしろ私は、前半5秒の木洩れ日の流れによって記憶の側へと流され、我知らず、記憶の木洩れ日に対して目を開いたというべきではないのか。しかもその目覚めには、「出来事」の痛みが伴っている。

私は、こういうところからしか「歴史」を考えることができない。バスの車内を流れる木洩れ日の甘美さと痛みとが、かろうじて私の生を「歴史」に繋ぎとめている。   (2006年11月10日記)。