「世界の外で会おうよ」

hidexi2007-08-07


溝口健二監督『祇園囃子』(1953年)をDVDで。今はなき「並木座」で初めて観て以来だから、十数年ぶりだ。 

「この程度のものならいつでも撮れる」とでも言いたげな、溝口監督の(弛緩とは無縁の)余裕がフィルムに滲み出ている。だがこうした安定感は、冷酷さの裏面なのではないかとも思う。

木暮実千代の艶かしさ、若尾文子の瑞々しさ、浪花千栄子の老獪さ、そしてダメ男たちのいやらしさ(複数形)が、通俗的な物語の流れ(だって原作は川口松太郎ですもの)と見事に構築された空間の中に、適確に配置される。均衡のとれたモノクロの画面には、ただ見惚れるしかない(若尾が舞妓デビューのときに着ている着物なんて、白黒のDVDなのに匂い立つような美しさだ)。  

なじみの客である専務に押し倒されキスされた若尾が、相手の舌を噛み大怪我をさせた直後、口のまわりを血だらけにしているショットがあるが、そうした衝撃的なショットさえ、畳に両手をついて呆然としている若尾を前景として、その背後に倒れて呻きながら身を捩る専務が、これしかないという構図に収まっていて、被写体の情動の波をカメラが沈静化しているかのようだ。

実際、この専務は自分に怪我をさせた若尾よりも、自分の会社に便宜をはかってくれる役人(いかにも帝大出という感じでよい)の相手をしなかった木暮の方に腹を立てている。若尾と遊びたいという一時的な情動(情欲)よりも金銭欲が優先されているのだ。その金銭欲に従うことは、世界を貫く冷たい法則を受け入れる代わりに世界の中に居場所を得ることと同義である。

すると、このフィルムの安定感は、資本の法則を受け入れることによってもたらされていることになるが、二人の芸妓(木暮と若尾)は、こうした「安定感」を「閉塞感」と書き換える。確かに、この作品世界には「外部」がない。もう少し正確に言うと、「外部」を一瞬でもいいから幻視させる「恋愛」がない。(「恋愛」がないということが、類似した内容をもつ『祇園の姉妹』(1936年)との決定的な違いだろう。『祇園の姉妹』では、姉芸妓がかつてのなじみ客に献身的に尽していた。) 
映画の冒頭に近い場面で、舞妓として仕込んでくれと木暮に頼み込む若尾は、「辛いからって中途でやめとうなっても行くところがありません。」と訴える。そしてエンディングに近い場面では、「からだを売らんと生活できんのやったら、うち舞妓やめる。姉ちゃんも芸者やめて。」と決然と言い放つ若尾に対して、今度は木暮が「やめてあんたどうすんのえ。おじさんのとこへ帰るのか、お父さんにやっかいになんの。どこ行くのぇ。」と激しく叱る。 
結局若尾は、自分にとって「祇園」という世界の外部はないと悟り*1、曖昧な表情で、宵の祇園を木暮と並んで歩いていく。

しかし、その「悟り」は諦めだろうか。安定した冷酷な世界で生きていくほかはないと悟ることは、なるほどロマンチックな「外部」を幻として吹き払うことだろうけど、それとは別の、未だ夢想されたことすらない「外部」への意志の芽生えを、悟ることでもあるのではないか。そして、そうした「悟り」を、陰影豊かなスクリーンの中でしか生きられない、その「外部」では生きられない女優=芸妓としての「覚悟」と重ねてみたくなる。でもこういう見方、溝口監督はやはり「冷酷に」退けるのだろうな。

*1:木暮の「悟り」は、これより少し前の場面で、例の役人に一晩付き合うと決めたときに生じる