生政治を動物に語らせよ

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東浩紀北田暁大『東京から考える――格差・郊外・ナショナリズム』(2007年、NHKブックス)。遅まきながら読んでみた。北田氏自身も認めているように、全体として確信犯的「印象論」という感じなのだが、それはそれで結構面白く読めたのは、二人の「温度差」が馴れ合いによって拡散されることなく、逆に最終章でその「温度差」が明確な「違い」として示されるから。こうしたフェアネスがもたらす緊張感は気持ちがよい。 

文化左翼」の観念性に疑問を呈し、理念や価値の共有による連帯ではなく「生物学的身体」に基づく「情」や「苦痛」による共感可能性をプラグマティックに語る東氏を、北田氏が「ローティー的ですね」といなせば、何を公的に「苦痛」と呼ぶのか、その(暫定的)土台を明らかにする議論が不可欠だと言う北田氏を、東氏は「ロールズ的に見える」と切り返す。 

他方で、二人の議論は、バトラーとラカン派(ジジェクやコプチェク)との「すれ違い的対立」を部分的に(あくまでも部分的に)反復しているようにも見える。 

東氏は、生殖(リプロダクション)は脱構築できない外部であり、その外部の処理こそがいま問われていると述べる。これに対して北田氏は、バトラー的構築主義は、その外部すら「外部として構築されたもの」と考える、だからこそ外部への信憑が強い人たちにとって(バトラーは)反発の対象となったと語る。 

しかし、両氏にとって問題なのは、「外部の構成」をめぐる議論ではない。東氏は、脱構築不可能な生殖の事実性(誰もが両親から生まれ、その両親もまた両親から生まれ…)から回帰するナショナリズムを問題にし、こうした回帰を前提として「人間工学」的な「社会設計」を考えなければならないと主張する。北田氏も、脱構築したとしてもナショナリズムが執拗に回帰してしまう事実を受け止めた上で、こうした回帰をどう捉えるか、どう「ハンドリングするか」が重要だと述べている。  

両氏はここで危ない領域に足を踏み入れている。それは、ここでの話題がまさしく生政治であるからではなく、両氏とも(「温度差」こそあれ)、「社会設計」や「ハンドリングする」といった言葉が示しているように、操作主体の視点から生政治について語っているからだ。あたかも、生殖の事実性(運命)は脱構築不可能だが、そこから不可避的に回帰してしまうナショナリズムは操作可能である、とでも言うかのように。だが、そうした「操作主体」こそ脱構築の対象となるべきものだ。 

生政治を、操作不可能性、「計算不可能性」、そして計算不可能な「享楽」の側から、つまりは生活の現場から語ることはできないのだろうか。東氏の言う「動物」は、こうした生活の現場(「ジャスコ的郊外」!)で飲み食い歌っている者たちを指し示す言葉だと思うのだが。

動物が語る生政治。何だか楽しそうだ。