スクリーンで見た映画(9/29〜10/20) 

せめて劇場で見た映画については感想を書き留めておきたいのだけれど、そのたびにブログを更新する気力も体力もないので、以前やったように(id:hidexi:20080216)見た順番にまとめて備忘録としておきます。

『喜劇 特出しヒモ天国』森崎東、1975)を何度見ても飽きないのはなぜだろう。自動車のセールスマンだったのにいつのまにかストリップ劇場の支配人になっている山城新伍のように、あるいはアル中の浮浪者だったのにいつのまにか人気ストリッパーになっている芹明香(アル中なのは相変わらずだけど)のように、流されていくことをそのまま肯定する様々な人間の物語が、抵抗の物語であると同時に物語への抵抗にもなっている、そういう複雑さのためだろうか。アブラハム渓谷』マノエル・ド・オリヴェイラ、1993)の色香は、ドウロ河流域の土地の芳香と切り離せないように思う。腰を下ろしたエマのスカートの中が見えそうなので、ブドウ畑で農薬を撒く青年たちが気にしてちらちら目をやっている。若い農民たちのこの視線は、映画を見る私の視線そのものになって、私もブドウ畑の湿った土を踏んでいる気がした。クラリャという村で村人たちが演じるキリスト受難劇の記録という体裁をとっている『春の劇』マノエル・ド・オリヴェイラ、1963)は、メタ『奇跡の丘』(パゾリーニ、1964)とでも言いたくなるフィルム。(いま書いていて気づいたけど、この二本、制作年がほぼ同じですね。)現実(キリスト)とは虚構のなかの裂け目なのだと知る。村人たちが朗々と口にする台詞の響きがいまでも耳から離れない。死刑台のエレベータールイ・マル、1957)は、何よりも触覚をめぐるフィルムではないだろうか。会社社長夫人(ジャンヌ・モロー)とその愛人(モーリス・ロネ)は、共謀して社長を殺してしまうほど愛し合っていながらも、映画のなかでは触れることはおろか同一のフレームに収まることすらない。ところが、刑事が立ち会う現像室で映像が浮かび上がってくる写真のなかでは・・・。視覚を通じて二人の触れ合いを観客が感知するとき、二人の命運は尽きフィルムも終わりを告げる。『夜の流れ』成瀬巳喜男川島雄三、1960)で山田五十鈴がからむシーンはすべて成瀬が監督したのではないだろうか。料亭の女将(山田)は、シベリア抑留のため脚は悪いが腕のいい板前(三橋達也)とできているが、それを知らない女将の娘(司葉子)は三橋に思いを寄せる。二人の関係が娘にばれてしまい、関係を絶とうとする三橋に向かって包丁を手にしてにじり寄る山田に、『折鶴お千』(溝口健二、1935)のエンディングで狂って包丁を振り回す山田の姿が重なってきてなんだか感動する。
それにしても、母親も女であることを知ったときの司葉子の冷徹な美しさは、『秋日和』(小津安二郎、1960)において母親(原節子)が再婚すると誤解したときの司の美しさと同様、尋常ではない。自分はシベリアで一度死んでいる、だからいつ死んでもいいと思いながら生きてきたと語る三橋に、あなたは本当に死のうと思ったことなど一度もない、そう決然と言い返す司葉子の理知は、中途半端な色気を消し飛ばすほど美しく輝いている。『Knight and Day』ジェームズ・マンゴールド、2010)はこのエントリーにおける唯一の新作。ある意味地味だけど、こんなに気持ちのいい新作ハリウッド映画は久しぶりだ。ジューン(キャメロン・ディアス)が妹の結婚祝いに贈ろうとするクラシックカーのエピソードからもわかるように、この映画は時代遅れのものに対するオマージュでもあるように思えた。CIAのロイ・ミラー(トム・クルーズ)はジューンのknight兼教育係とでも言うべき役回りなのだけれど、最後にこの関係が逆転するところがミソ(Corneliusのアルバム『Fantasma』に入っている「Typewrite Lesson」という曲との間テクスト性あり)。重要な小道具は催眠剤。気持ちの良さという点では『喜劇 とんかつ一代』川島雄三、1963)のミュージカル仕立てのエンディングも同様だ。この映画におけるフランキー堺の台詞を始めとするナンセンスなギャグに笑わされながら、川島雄三ってマルクス兄弟主義者であったのだなぁと感得。

Talking Silents 2「折鶴お千」「唐人お吉」 [DVD]

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Fantasma

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