もう一品、いただきます


至福感に満ちた『妄想少女オタク系』(2007年)の監督、堀禎一の劇場映画デビュー作『弁当屋の人妻――もう一品、私はいかがですか?』(2003年、劇場公開時のタイトルは『SEX配達人 おんな届けます』、アテネ・フランセで上映されたときのタイトルは『宙ぶらりん』って、なんだこれ?事情は察せられるけど)をDVDで。あまりに素晴らしかったので、数日おいてもう一度見た。

器材を用いれば原理上は誰にでもとれてしまう音−映像と「映画」との違いはどこにあるのか。究極的な違いはない、という「政治的に正しい」答えをとりあえず脇において、掘禎一は「違い」の内実を吟味する。これは「映画」である、これは「映画」ではない。『弁当屋の人妻』はしかし、この「排除と選別」という(反動的な)作業だけから成立しているのではない。このフィルムの基底にあるのはむしろ、「排除と選別」の基準そのものがあらかじめ存在しているわけではないこと、その基準に従うことはすなわちそれを創設=更新することだということ、そうした認識と覚悟である。 

たとえば、このフィルムには明らかに溝口を反復=更新しているショットがある。主人公の美香(ゆき)が、デリヘル業者の運転手を勤める男(恩田括)と同棲するアパートを一人飛び出して、弁当屋の同僚である佳子(星野瑠海)の家に泊まる。翌朝、美香のアドヴァイスのおかげで男性機能を回復したという佳子の夫(伊藤猛)が、白いカーテン越しの淡い光の中で足の爪を切っている。その男をフル・ショットで捉えるキャメラは、ゆっくりとカーテンに近づきながら上に移動し、画面を白い光で満たしたかと思うと、キャメラは下に移動しながらカーテンから遠ざかる。するとそこは男のいた部屋の窓の外側で、自転車に乗って出勤しようとする美香と佳子がキャメラに納まっている。『雨月物語』の同様のショットでは、湯治場で湯浴みをする森雅之京マチ子を捉えるキャメラは、細い水の流れを追いながらパンしていき、今度は湖畔の原っぱで戯れる二人をロングで映し出していた。溝口のこのショットは、同じ男女を戸外から別の戸外へ移動させる魔術的なものだった。この場合、離れた二つの場所(戸外)だけでなく、離れた二つの時間をもワン・ショットで(あるかのように)つないでいることになる。堀の場合、ショットの始まりと終わりは同じ時間の流れの中にあり、カーテンの内側から外側への反転がワン・ショットで(あるかのように)つなげられている。『雨月物語』のショットは幻想的な効果をもたらしていた。これに対して、『弁当屋の人妻』のショットはあくまでも日常性の枠内にある。しかし、部屋の内と外が反転する瞬間に画面に満ちる白い微光は、内(日常)と外(日常)とのあいだの幽かな隙間としての非日常を、逆にそこから日常が構成される幻想的な核として示しているように思える。 

他にも、美香が弁当屋の客を小さな駅の改札で待つ場面で、物語とは無関係な老夫婦(?)をフル・ショットで前景化し続ける(その画面の片隅の影の中に男を待つ美香がいる)ところなど、刺激的なショットがいくつもあるのだが、残念ながらそれらについて書く時間がない。とにかく掘禎一のこのフィルムには、情緒を振り切る知性が生み出す瑞々しい抒情が漲っている。紋切型の物語の結末で、美香が男をみつめるときの表情の震えを目にしておきながら、誰が震えずにいられるだろうか。[rakuten:guruguru2:10308487:detail]