黒沢清『トウキョウソナタ』(2008年) 

冒頭、窓から吹き込んでくる風がカーテンを揺らしている。『トウキョウソナタ』の風は、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985年)のルノワール的淫風でもなく、『勝手にしやがれ!! 英雄計画』(1996年)のエンディングにおける異世界からの風でもない。『トウキョウソナタ』の風は、この世界の内部での大気の循環そのものであり、気圧の変化を示す徴にすぎない。しかし、その風がカーテンを音もなく揺らすとき、無意味で殺伐とした日常は、相変わらず無意味ではあるけれど意味の萌芽をはらむ時空に変化する。この世界に生きることは、もしかすると無意味ではないかもしれない。「・・・かもしれない」という予兆として、風はカーテンを揺らす。それはやはり、世界の内部における大気の流れ、そうした流れの繰り返しにすぎないのだけれど、それぞれの「試練」を経て明け方に帰宅した父(香川照之)、母(小泉今日子)、次男(井之脇海)のように、そして『雨月物語』の田中絹代の幽霊のごとく突然イラクから帰宅した長男(小柳友)の幻のように(あれはやはり幽霊ではないのか)、回帰する風の表情は、以前とは微かに、だが決定的に違っている。エンディングのピアノの試験会場に吹き込んでくる風は、次男が奏でるドビュッシーの「月の光」の旋律と同調して情動の大波となり、私を遠くまでさらっていったのだが、さらわれていった先の駅のホームで風に吹かれても、この予兆の波がなにを知らせているのか、その意味は相変わらずわからないままで、わからないまま、しかし朗らかに、日常の電車に乗った。


ドレミファ娘の血は騒ぐ [DVD]

ドレミファ娘の血は騒ぐ [DVD]

勝手にしやがれ!! 英雄計画 [DVD]

勝手にしやがれ!! 英雄計画 [DVD]


〈追記〉 『トウキョウソナタ』の細部については、書きたいことがいろいろある。ひとつだけ言うと、近年の黒沢作品との違いとして、なによりもまず、人がかかわる(落下、上昇等の)垂直の運動が『トウキョウソナタ』には見られないということがある。いや、たしかに落下に近い運動はある。ピアノ教室に通っていたことがばれて父親に殴られる次男が、階段を真っ逆さまに音もなく滑り落ちてくる意表を突くショットがそれだ。しかしそれは、『CURE』や『回路』、『叫』で見られたような高所からの人間の落下ではではないし、『Loft』における、湖から引き上げられる死体の垂直の運動でもなく、『人間合格』で西島秀俊を押し潰す冷蔵庫の落下とも異なる。階段を滑り落ちるという運動は、垂直の運動ではなく、斜めの運動なのだ。しかも、その「斜めの降下」は、キャメラによって正面から捉えられているので、その運動の「斜め性」は目立たないようになっている。この「垂直」と「斜め」の微妙な違いは、このフィルムの「テーマ」につながる重要性をもっているのではないか。この斜線=対角線から私が妄想するのは、カントール対角線論法であり、さらに妄想を暴走させて言うと、青天井の、際限のない「可能的無限」(あの世はその遙か彼方にある)ではなく、閉じているけれどその外部(あの世)はない、カントール的「実無限」の世界に、つまり、「彼方」が同時に「ここ」でもある世界に、黒沢清は向かっているのではないだろうか。そうした世界に向かうことが、或る文化的フレーム(映画)の成立条件を問い直す試みとして実践されているように思えてならない。