切ってつなげてつなげて切って*1

先週の「パレルモパレルモ」に続いて一昨日は「フルムーン」、そして昨日はまたアテネ・フランセ文化センターのペドロ・コスタ特集(昨日の朝に来日したばかりのコスタ監督の講演付き)へ。ついでに予定を記しておくと、今日はシネマヴェーラ若松孝二『性の放浪』とユーロスペース万田邦敏UNloved』を見て、明日はNFCのマキノ特集最終日の『忠治活殺剱』に駆けつける。こんな悦楽の日々もあと数日だ。 

昨日のアテネで見たものは、ダニエル・ユイレ、ジャン=マリー・ストローブ『研ぎ師』、同『浮浪者』と、ペドロ・コスタ『現代の映画シリーズ: 映画作家ストローブ=ユイレ』(2001年、TV放映版)、同『映画作家ストローブ=ユイレあなたの微笑みはどこに隠れたの?』(2001年)。『研ぎ師』と『浮浪者』はそれぞれ、ユイレ、ストローブの傑作『シチリア!』(1998年)のワン・シーン(になるはずだったが捨てられたテイク?)で、なぜそれらが上映されるのかというと、コスタ監督の『映画作家ストローブ=ユイレ』が、『シチリア!』の編集作業中のユイレとストローブを撮ったドキュメンタリーだから。

このドキュメンタリーを見ていてまず思ったのは、フィルムのなかで、「編集の邪魔しないで!」、「だまっててよ、気が散るじゃない!」などとストローブを「叱って」いるダニエル・ユイレは、もうこの世の人ではないのだということ。暗い編集作業室の、ここしかないという位置から撮られた映像では、ユイレはほとんど背中しか見せない。ぼんやりとした影のようなその姿が、今となってはまるで幻か幽霊のようにも見えてしまう。しかし、編集用のディスプレイに映る『シチリア!』の映像は、そして編集という「労働」に没頭するユイレの後姿は、そんな神秘主義を一蹴する*1。編集作業に神秘や秘密はない。それはフィルムを切ってつなげて、フィルムが感知した多数多様な光(フィルムの経験)から一本の作品(という「世界の断片」)を作ることだ。つまり編集とは、切断と接続の反復(継続)によって、〈多数的なもの〉の経験を伝達するメディウムを生産する労働なのだ。かつてゴダールは、「生産物は注目されるが、誰も生産過程を見ようとはしない。だから私は工場のなかを撮る。」という意味のことを言った(と思う)。私たちが見ることができるのは映像作品(生産物)であり、編集作業(生産過程)は不可視の労働だ。「現代の映画シリーズ」という、映画作家が別の映画作家に関するフィルムを撮るこのTV企画をペドロ・コスタが引き受けたとき*2、コスタ監督の念頭に先のゴダールの言葉があったのかどうかはわからない。ともかく彼は、通常は不可視の編集作業室という「暗箱」に光を導き入れ、ユイレとストローブの唯物論を、「暗箱」のなかの労働の親密さとして明るみに置いた。切ってつなげる編集という労働を経ない映画はない。たとえ全編がワンカットで撮られたフィルムでも、そのフィルムの始まりと終わりには「カット」が必ず存在するのだから。しかし、「つなぎ」のない「カット」もまた存在しない。一作品の始まりと終わりという「カット」でさえ、あくまでも「とりあえずの始まり」、「とりあえずの終わり」であって、それらは撮影スタッフや現場、観客、上映スタッフ等々といった事象に物質的に「つなげ」られている。一本のフィルムは、世界のなかに溶解してしまうことはないけれど世界から切り離されてもいない、世界の特異な断片としてあるのだろう。そうした断片はやはり、編集という労働なしには存在しないのだし、この世界における切断と接続の無数の反復、そうした「編集作業」のなかにこそ希望はある。そんなことを、「暗箱」に射し込む光を見ながらぼんやりと考えた。

*1:このダニエル・ユイレの後姿に、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1967年)でクラヴィーアを弾くアンナの後姿をどうしても重ねたくなる。

*2:コスタ監督の講演で知ったのだが、この企画でストローブ=ユイレを撮る監督は当初はゴダールだったそうだ。企画に乗ったゴダールは入念に準備をし始めたのだが、長時間経過しても進捗状況について何の連絡もないので、心配になったプロデューサーがゴダールに連絡すると、「もう撮り終わった」という。その「撮り終わった」フィルムとは『ゴダールの肖像』(原題は JLG Par JLG)のこと。つまりゴダールは、ストローブ夫妻を撮らずに、その予算で自分を撮ってしまったのだ。はぁ、スゴイな、いろんな意味で。無責任に笑うしかないこの挿話に関連して付け加えると、『d/sign』no.15における松本圭二による書評(コリン・マッケイブの『ゴダール伝』に関するもの)が面白い。