継続と反復

昨日24日、第9回レイモンド・ウィリアムズ研究会@日本女子大学で、Williams の Modern Tragedy(1966)に関する大貫隆史さん(釧路公立大学)の報告を聴く。明快稠密、豪胆にして繊細な議論で、とりわけイーグルトン(「盲目」の仕組みそのものへの盲目)とジェイムソン(「必然性という経験」の必然性を解除する契機の欠如)との対比によってウィリアムズの特異性をあぶり出していくさまは見事というほかない。私としては、「アクションの継続性」がもつアクチュアルな重要性が、今回の大貫さんの解説でやっと腑に落ちた次第。3.22シンポジウム、来ないと損ですよ、本当に。 

報告を聴きながらじつは、私の頭の隅に引っかかっていた問題が徐々に大きくなり重くのしかかってくるのを感じていた。それはまず、全体性に関する問題だ。ウィリアムズのいう全体性(wholeness)を、アクションの継続性を妨げるもの、つまり共同体=全体性とその外部というアリストテレス的(プトレマイオス的?)全体性として捉えて本当によいのだろうか、その場合、”a whole way of life” とウィリアムズがいうときの「全体」との齟齬をどう考えるのか、という疑問だ。ウィリアムズのいう全体性はむしろ、大航海時代後の、あらゆる共同体の外部が消滅し、それ自身の外部が存在しないがゆえに、つまり閉じているがゆえに無限である内包的時空間と捉えた方がよいのではないだろうか。この研究会が立ち上げられた頃、「ウィリアムズの全体性はラカンのいう “not-whole” だよね」などと冗談をいっただけで済ましていたつけが回ってきたかたちだ。これは、ウィリアムズのテクストに沿って一度きちんと論証しておかなければならない、とは思うのだが。

もっとやっかいなのは、「アクションの継続性」の裏面にかかわるものだ。質疑応答のときに確認したように、「アクションの継続性」は、必然性という悲劇形式による媒介=抵抗(試練)を経た後に(あるいはそうした抵抗=試練のただ中に)見出されるべきもので、無媒介的にアクションがだらだら続いているというベタなものではない。これを十分承知したうえで思うのだが、そうすると、現在継続している国家と資本による暴力は、継続されるアクションと共に(経験としても)継続されていく、ということになりかねない。ここにどうしても切断ないしは中断・停止というモメントを導入する必要があるのではないかなと思ったりする。つまり私としては、大貫さんが見事に取り出してくれたウィリアムズの「アクションの継続性」という理論と経験を、ベンヤミン、ハーマッハーらに無理やり繋げて(中継して)みたくなってしまうのだ。そうすると、(イメージに流れた物いいになってしまいますが)「継続性」と同時に「反復」という相(フェイズ)を見ていくことが大切になってくるのではないか、と。つまり、繰り返される中断と再開、終わりと始まりの絶え間ない反復、キャッチーにいえば「何度も初体験」である。これって、直線を、滑らかな連続体として考えると同時に離散的な点の集合体として考えるという見方(複眼視?)とアナロジカルだ、といってしまうと、先ほどの「継続性」と「反復」との背反性が際立ってしまうだろうか。無理なのかもしれないけれど、どうせ考えるなら「無理」なことを考えたい。

繰り返しますが、3.22シンポジウム、来ないと損ですよ、本当に。

《追記》上のエントリーをアップしてから、id:takashimura 氏のエントリーを読みました。「全体性」について、同じようなことが気になっていたのですね。