「活動」のあいまに

一昨日は5分間の休憩を入れて6時間におよぶ会議。昨日は休憩なしでほぼ4時間の団交。しかも組合側としてはほとんど私一人でしゃべる。今日は次回団交やら組合大会やらの準備のため終日自宅で雑務。私大教連の方とも電話で1時間ほど相談する(いつもありがとうございます)。そんな「活動」のあいまに、フリー・ペーパーの「WASEDA bungaku」を眺めていたら、インタヴューにおける蓮實重彦の発言に目が留まる。

蓮實氏によれば、哲学者は、どこかで無限に触れてもおかしくないような、いわば純粋思考の世界に生きており、「全体」について考えるひとたちだが、これに対して批評家は、あくまで有限の文字記号からなる形而下的なフィクションのテクストを相手にする。批評には、本来ならその「すべて」の記号を眠りから覚ましたいという思いがあるが、その「すべて」なるものを口にした途端に、批評家は「全体」を思考しようとする哲学者と同じスタンスに陥ってしまう。だから批評家は、「全体」について語ることを「断念」しなければならない。そしてまた、そうした「断念」なしにいくらでも維持しうる言説が「セオリー」であり、「セオリー」は批評の廃墟の上に組織された言説なのだ。批評を殺したデリダは、戦略的に「芸術への無関心」を装う哲学者だが、戦略的な「断念」すらないひとたちがデリダを読んだときに或る種の図式(セオリー)ができあがり、その図式の耐用年数がそろそろ尽きた頃にあっけらかんとした風情で「セオリー」は終わったと口にするのもまた、そうした「断念」のないひとたちなのだ、と。実際に蓮實氏の言っていることはもうちょっと微妙ですけど。

いろいろ思うところはある。でももう「活動」に戻らないと。