一月にスクリーンで見た映画

以下とりとめもなく(タイトルが太字になっているものが一月にスクリーンで見た映画です)。

マノエル・デ・オリヴェイラ夜顔(2006年)には心底打ちのめされた。あの奇妙な食事の場面の、窓外から室内にしのびこんでくるパリの夜気の透明さは、30年という時間が蒸留されてできた物質のもつ属性であるかのようだ。セヴリーヌ(ビュル・オジエ)が怒って立ち去るときのショットと音がまた圧倒的。フレデリック・ワイズマン『チチカット・フォーリーズ』(1967年)は、精神異常とされた犯罪者のためのマサチューセッツ矯正院の内部をひたすら撮り続けたドキュメンタリーで、声高な告発調ではないだけに(音楽もナレーションもない)、カメラが提示するリアリティはフレームの外の「事実」をも引きずり出してくる。マキノ雅広『阿片戰爭』(1943年)は「大東亜共栄圏」建設の正義を宣伝する「国策映画」だが、これを見て「英国ってホントあくどいよなぁ」と思った私は、原節子高峰秀子が演じる中国人姉妹に騙されたのだろうか。だが原さんも高峰さんもすでにお婆様なので、今「国策映画」が撮られたとしても私を騙すことはもうできない。成瀬巳喜男『乙女ごころ 三人姉妹』(1935年)は成瀬初のトーキー作品。ヒロイン(堤真佐子)が、家出した姉の好きだった浅草松屋の屋上に行くと、やはりそこには姉がいて眼下の街並みを眺めていた。1970年代頃までだろうか、映画におけるデパートの屋上は、会いたい人に会ったり会いたくない人に会ってしまったりする特別な場所だったような気がする。デパートではないかもしれないが、成瀬『女人哀愁』(1937年)でも、入江たか子が密かに思いを寄せている(ように思える)従兄と親密な会話を交わす場所は銀座のビルの屋上だった。成瀬の『驟雨』でも重要な場所としてデパートの屋上が使われていた。成瀬に限らなくても、映画は屋上が大好きだ。小津の『秋日和』で、東京駅から東海道線に乗って新婚旅行に出かける友人に、丸の内のオフィス・ビルの屋上から手を振ろうとする岡田茉莉子司葉子。マンションの屋上を密室にしてしまった若松孝二『ゆけゆけ二度目の処女』は、こうしてみるとやはり残酷なまでに異色だ。神山『攻殻機動隊S.A.C The Laughing Man』の、草薙素子とトグサがビルの屋上で対話するシーンでは、無意味に宙を舞う草薙が何だかやけに気持ちよさそうだった。閑話休題。成瀬『まごころ』(1939年)の瑞々しさはまるで清水宏のようだと驚く(二人の少女がそれぞれの親の婚前の関係について、誰もいない校庭で語り合うシーンはとりわけ素晴らしい)。成瀬『鶴八鶴次郎』(1938年)はやはり傑作で、このフィルムと同じ芸道物の溝口『残菊物語』と比較すると、男女の関係が(微妙なひねりを加えられて)反転しているところが面白い。溝口健二『マリアのお雪』(1935年)、タランティーノデス・プルーフ in グラインドハウス(2007年)、小原真史『カメラになった男 写真家 中平卓馬(2003年)の三本については、以前ここに書いたので省略します。