なぜ、中平卓馬か

原点復帰-横浜

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小原真史『カメラになった男 写真家 中平卓馬』(2003年)@シネマアートン下北沢。(この映画に関する情報はこちらをどうぞ。ついでにこちらのエントリーも。)新左翼系の総合誌『現代の眼』の編集者を経て写真家となり、1968年には多木浩二らと写真同人誌『Provoke』を創刊し既存の写真界に鋭利な介入を行い、その後もラディカルな写真・批評を発表し続けるが、77年に昏倒し言葉と記憶の大部分を失いながらも徐々に快復し、記憶と言語に若干残る障害を抱えながら現在も写真家として活動中・・・といった中平卓馬の半ば伝説化した経歴についてはここで紹介するまでもないだろう。評判の高いこのドキュメンタリー・フィルムを見る前に私が少しだけ危惧していたのは、「喪失と再生」という「俗情」とこのフィルムとの「結託」だったが、それは杞憂に終わった。そうした「俗情との結託」を回避しえたのは、小原監督の聡明さと中平に対する敬愛に満ちた距離感=倫理のためだろうし、何よりも中平卓馬という存在自体が、四方八方から絡みついてくる「俗情」の網の目を飄々とすり抜けている。 

圧巻は、沖縄で開催された(私の記憶が正しければ)「沖縄の記憶、写真の創造」と題されたシンポジウムのシーン。登壇者は中平とかつての盟友である森山大道東松照明、それに荒木経惟港千尋。まず中平が壇上に現れ、ひょこひょこと歩いて勝手に他人の席に座ってしまうところからして(シンポジウムの)場内が笑いに包まれるのだが、シンポジウムが進み、発言を求められた中平は、まずこの会の趣旨、タイトルに対する異議を客席に向かって語り始める。「あそこにああいうふうに(タイトルが)書いてあるけどね、オレはね、写真は記憶とか創造じゃなくて、ドキュメントだっていってるの。この沖縄の現実ってものをね、どうとらえるかっていうと、荒木さんなんかどう考えてるのかね。」といわれた荒木は苦笑しながら「困ったな、いやだからさ、さっきいったように、オレはそういう政治的なことは考えない立場でここに来てるわけだから。そういうことじゃなくて、この沖縄の熱みたいなもの、情熱っ!とか汗とかさ、そういうものを撮りたいんだよ。」これに対して中平が痛烈な一言。「それじゃダメでしょ。そんなことで、(客席の沖縄の)みんなと一緒にやれるのかね。」シンポジウムが閉会した後も、中平はふらふらと壇上を歩きながらフロアに向かって何やら熱心に語りかけている。このシーンの後のカットで、中平が赤いポールペンで書いた一文が写る。「中平、写真家。荒木、遊芸人。」
また別のシーン。中平の良き理解者の一人である沖縄在住の詩人、高良勉が酒席で中平に、沖縄滞在もあと一日なのだから明日は写真を撮るのをやめてゆっくり過ごせと(冗談っぽく)「命じる」。そういわれた中平は憮然として、「そういうことではもう(あなたに)会えない。オレは写真を撮りに来たんだから。」気まずい空気を散らそうと誰かが「はいさいおじさん」を流すと中平も一緒に踊り出す。 

以上のシーンに見られるような、妥協を知らない批判精神、切断への意志は、記憶を失う以前から一貫しており、中平が以下のような自己批判を現在も反復していることを示している。

私の写真に〈詩〉があったということ、それ自体私に対する批判に逆転されねばならない。〈夜〉〈闇〉に溶暗する事物、それは私が見ることをあきらめ、同時に、その照りかえしとして、事物の視線を、事物が事物として充足するその瞬間から眼を閉ざすことを証していたのではないか(『なぜ、植物図鑑か』24頁)。 

「歌のわかれ」は一度ではすまない。その反復はしかし、それ自体が悲壮な自己愛に満ちたフェティシズムの対象となってしまいがちだが、中平の場合、(それを病気のせいだというべきではないのだろうが)病後の「わかれ」の反復はかえって軽やかなユーモアを帯びてきている。70年代以降、多くが「自然過程」に潰され流され、潰され流された記憶すら健忘の果てに流して生きているなかで、中平卓馬の「病者の光学」(というよりむしろ、あの飄々とした佇まいからして「病者の流体力学」というべきか)が垣間見せる笑みは、私を勇気づけてくれると同時に緊張させる。 

〈追記〉 映画のエンディングで、ブリジット・フォンテーヌの「COMME A LA RADIO」が流れてきて、なつかしく思った。この歌(とアルバム)、学部時代に友人の通称ジャリにLPからカセットテープに落としてもらって、フランス語の聞き取り練習も兼ねてよく聴いていたのでした。ジャリ元気か!ってこの前会ったばかりだな。

ラジオのように

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