「一神教」の発明


『SITE ZERO/ZERO SITE』no.1(2007年)所収の、エティエンヌ・バリバール「「一神教」という言葉の起源と用法に関するノート」柿並良佑訳、を(本日の勤務時間の合間に)読む。イスラーム神学などの用語が多く使われていたりして、訳者の苦労が察せられる。原文は読んではいないが、明快な訳文だと思う。

さてこの論文自体は、バリバールも言う通り、別の論文のノート(註)として考えられたものだけに、思考のエンブリオが暫定的に無造作に呈示されている感じなのだが、それでも示唆的な記述が散見された。特に、一神教に関する宗教問題を理論化、歴史化する方法をシェリングの中に読み取るところ。シェリングの言う、自己を意識した「絶対的一神教」は、多様なものにおける統一という「有機的な」観念だが、〈絶対者=神〉が人間の世界に啓示される際には、神話的な「多神教」が媒介項となっているという。つまり、ディオニュソスなどの密儀における「パトローギッシュなもの」(という言葉はバリバールは使っていないが)あるいは民俗的・歴史的なものを媒介として、神の観念が現実世界の中に啓示される。こうして、神の啓示という神学問題と歴史的・実定的(ポジティヴな)宗教問題とがいかに重なり合うのかが理解されるのだ、と。これはもちろん、ロマン主義における民主主義がはらむ政治神学的な問題と直結している。 
バリバールは一貫して、一神教を歴史的カテゴリーとして捉えようとする。そうした歴史的=理論的考察によって示されるのは、一神教がその(複数の)起源からして分裂、ずれをそれ自身の内部に抱えているという事態だ。「「一神教」という名は、自らが絶え間ない分裂を覆い隠しているという事実にのみ、その生命と潜勢力を負っている」(311頁)。 
いうまでもなく、「一と多」という哲学上の問題にも、「普遍主義と多元主義」というポリティクスの問題にも、「一神教」(そして必ずしもその反意語ではない「多神教」)をめぐる議論の堆積がのしかかっている。パウロの普遍主義でもって現代の多元・相対主義の弛緩した横面を張り倒したバディウなどは、そうした堆積の中に遡行し、政治=抗争としての宗教を現代の政治(の忌避)の舞台に乗せたわけだ。

バリバールの『市民権の哲学―民主主義における文化と政治』、長いこと積読が続いている。そろそろ読もうかな。