『サッド ヴァケイション』

hidexi2007-09-29


一つのフィルムを鑑賞した回数の多さが、そのフィルムをめぐって紡がれる言葉の質を保証するものでは必ずしもないだろうけど、たとえ軽いコメントめいた感想にすぎないとしても、その感想が作品に対して好意的か否かということにかかわらず、一度しか見ていない映画についてネット上で何がしかのことを分節化してしまうのは、とりわけ作り手の側が経てきた多様な時間の層に思いを馳せるとき、やはり後ろめたい気がどうしてもしてしまう。木戸銭をとって興行している以上、作り手の側には、一度観ただけで的外れの裁断を下す者や、上映開始直後に席を立つ者が出てくる覚悟はできているだろう。しかし、私としては、まだ一度しか見ていないフィルムについてブログで感想を述べようとするとき、夜明けの汗に濡れたアンダーシャツのようにこの「後ろめたさ」が背中に貼りついていることを意識せざるをえない。自分の感想が独善的で藪睨みであるかもしれないことに対する言い訳としてだけでなく。 

野暮なことをくどくどと書いたけど、だって、一回で受容しきるには情報量が多すぎるんだもの。とくに、『サッドヴァケイション』(青山真治監督、2007年)の場合は、そこに流されている多様な音楽も含めて。
それはともかく、『サッドヴァケイション』はとても面白いフィルムなので、興行的にもぜひ成功してほしいと思う。 

母なるもの=自然〔ジネン〕に対する非エディプス的闘争という、中上健次が『地の果て 至上の時』以降の作品世界で消耗しながらも展開していた主題が、このフィルムの内容面での核心であることは明らかだ。こうした闘争は、主人公の健次(浅野忠信)の父親が自死してしまう『Helpless』(1996年)からすでに始まっていたわけだが、十年後の『サッドヴァケイション』ではむしろ、自然に対する闘争そのものを無化してしまう母親(石田えり)という反記号的「モノ」に対する、敗走を重ねながらの抵抗が主題化されているというべきなのかもしれない。健次の「抵抗」は刑務所の中で現在も継続されているはずだ。

Helpless [DVD]

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刑務所の外では何が起きているのか。あの哄笑を誘うエンディング*1で男たちが浴びる液体は、知的障害者のユリ(辻香緒里)が飛ばす巨大シャボン玉の、「空虚」を包む不定形の「表皮」が形を変えたものだが、ということは、男たちは<女>が抱える空虚の中に飲み込まれてしまうということなのだろうか。だとすれば、健次が刑務所にいてそれを免れているのは物語上の必然だろう。

ところで、青山監督が中上健次を下敷きにして撮ったフィルムを観るたびに、「ハスミ殺し」というフレーズが頭をよぎる。いや、正確には「殺し」というのではなく、母性=自然に対する非エディプス的闘争と蓮實氏に対する「恩返し」とが、捩れた形でつながっているように思えてしまうのだ。  

これに関連して一つ付け加えると、『サッドヴァケイション』で気になったのは、ワンショットで持続できるところを、わざとコマをとばして編集でつないでいるところが頻繁にあるという点だ。そういうところは不自然なほど多く、トニー・スコットか?と思うほどだった。これって、なまなましいワンショットにこだわる黒沢清監督への批評を含んでいるのだろうか。 
それから、刑務所の面会室で石田えり浅野忠信が対話する場面で、小津的な切り返しショットが批評的に引用されているけど、これなんかも『監督小津安二郎』に対する応答なのかと思ったり。

監督 小津安二郎

監督 小津安二郎

それにしても、浅野忠信はいいなぁ。あの立ち居振る舞いといい、ぼそぼそとした発声といい、フレーム内にいるだけで絵になる。それから、あの中国人マフィア。どういう役者なのか知らないけれど、何をするかわからない狂気が端正な容姿を異化している。 

サッドヴァケイション』については、とりあえずこんなところで。…どうにか「天皇」という言葉を出さずに済んだようだ。

*1: これ、鈴木清順監督『ピストルオペラ』のエンディングがもたらす哄笑と同質のものだ。青山監督、あの清順作品は面白くないってどこかで言っていたと思うけど。