蕎麦じゃなくて中華でもよかった

hidexi2007-08-29


昨日(28日)、ジャ・ジャンクー監督『長江哀歌(エレジー)』(原題:三峡好人、2006年)を観る@シャンテ・シネ。もう一回は観に行くと思う。 

たくさんの宝石が詰め込まれているフィルムで、一回観ただけではその魅力をうまく説明することは私にはできないが、たとえば冒頭、カメラはゆったりとした歌声に合わせてパンしながら、長江を行く船の乗客たちを映していき、主人公の炭鉱夫サンミンがフレームに入ったところで静かに止まる、この緩やかな呼吸、リズム。このリズムの緩やかさと、三峡ダム建設による街の変貌の急速さ(現実)との対立が、このフィルムの軸であり、力の源であるのかもしれない。

ダム開発は、土地の風景のみならず地域の人口動態、産業構造をもあっという間に変えてしまうが、そこに生きる人々の気持ちは、いわばゲニウス・ロキ(土地の精)のように、同じ場所に滞留する。サンミンは十六年前に別れた妻子を探すために、シェン・ホンは二年前に音信不通となった夫を探すために、長江の流れに乗ってこの街にやってきた。二人はそこで現実の変貌ぶりに直面し、戸惑い憔悴するが、しかしそれぞれのやり方で、いずれもゆったりとしたリズムを刻みながら、新たな方向に眼差しを向け始める。   

音響も素晴らしい。全編に渡って流れる中国のポップソング(なぜか宇宙人のような少年がしばしば登場して、大人の恋の歌を歌う)、ポンポン蒸気の音、客船の汽笛、口論する人々の罵声、クラクション、建物を解体する労働者のハンマーがたてる音さえも、このフィルムではすべてが「音楽」の資格を与えられている。(だがら、サラウンド・システムのある映画館で観ないと損です。)サンミンと心を通わせる、気のいいチンピラのマークの携帯から流れる着メロが、そのまま映画音楽になり、しばらくして音楽が止まり静寂が訪れシェン・ホンが初登場するショットにつながると、今度はジェット機(UFO?)の轟音が響き渡る。こうした音の編集など、決まっているとしかいいようがない。) 

「巨匠」の風格を漂わせる「古典的」作品と受け取られるかもしれないが、ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』と同様、これは映画史の最先端に位置づけられるべき極めて野心的なフィルムでもあると思う。それにしても、『長江哀歌』と『ヴァンダの部屋』いずれにおいても、解体されていく街が舞台となっているのは偶然ではないだろう。大雑把なことをいえば、グローバリゼーションに対する「芸術的抵抗」を促す何かが、二人の大才を突き動かしているのかもしれない。

観終わった後、銀座の某蕎麦屋で一杯。タコの柔らか煮と「銀盤」が旨かった。