ブレヒト『処置』から考える 


昨日は、TAGTASプロジェクト2011の円卓会議4「ブレヒト『処置』から考える」へ。「劇団・錦鯉タッタ」のみなさん(山田零、岩崎健太、藤島かずみ)がブレヒト作『処置』に三つのシーンを加えたものを上演し(演出は山田零さん)、そのあと観客を含めた全員で上演のテーマである「正義」や「労働」について語り合うという試み(詳細はこちら)。加えられた三つのシーンというのは、3名の役者さんそれぞれの苛酷な賃労働についてのドキュメンタリー的報告で、見ていて身につまされながらも、大笑いするところもあったのがよかった。
討議のときに、Sさんから絵に描いたようなむちゃ振りをされて、part of no part(全体の一部ではない部分)がどうのこうのとまたわけのわからないことをしゃべってしまい、さらにもう一つ言いたいことがあったのだけれど、話が長くなったのでそれを言い残したまま中座せざるをえなかった。
言い残したことというのは、『処置』と、能曲『谷行』に基づいてブレヒトが書いた『イエスマン ノーマン』との関連について。『処置』も『イエスマン ノーマン』も、「全体」のために「個」を殺すことの是非をめぐる「教育劇」で、『処置』では、全体(党すなわち革命という大義)のために一人の党員がほかの党員たちに射殺され石灰坑に投げ込まれる。『イエスマン ノーマン』の「イエスマン」のパートでは、全体(疫病に苦しむ村)を助けるために旅に出た一行のなかで、険しい山道を歩けなくなった少年が、こういう場合の「昔からの慣習」に従って谷底に投げ込まれる。しかし、「ノーマン」のパートでは、「イエスマン」とほぼ同じストーリーが反復されながらも、歩けなくなった少年は谷底に投げ込まれることを拒否し、拒否する理由を理路整然と述べると、一行は少年の言葉に説得され、世間の笑いものになろうとも「道理のあること」を行い、旧い慣習を改めようと決意する。『処置』では、犠牲になる党員は最初は抵抗して自分の意見を述べるのだけれど、ほかの党員から「君の言うことには説得力がない」と批判され、しだいに逼迫する状況のなかで最終的には殺されることに同意する。しかし、大義のために犠牲となったこの党員が逆上することなく、「ノーマン」における少年のように「道理のあること」を根気強く説き続け、その結果ほかの党員たちを説得するという可能性はなかったのだろうか。『処置』における「ノーマン」ヴァージョンの可能性は。
だがこうした「可能世界」を夢想することはあまりにもナイーヴだろう。現実には、道理が通ることなどまずない。とくにそれが、「全体」(あるいは「公共の利益」)に反する道理であったり、体制を根本的に変えうる道理であったりする場合は。しかし、「ノーマン」の少年が「否」を発するとき、そしてその少年の言葉を「道理のあること」として一行が受け入れるとき、これらの者たちは「全体 ― 個」という弁証法的回路から逸脱して「普遍」へとつながり、それぞれが「すべて―ではない」者(part of no part)として、これまでとは別の連帯、別の社会的紐帯を作っていく。そして、こうした「逸脱」にこそ未来の「現実」が賭けられているのではないかと。(しかしこれって、むかしむかし院生のときに書いた小論と言ってること同じだ。南無。)
「ノーマン」の最後はこう結ばれている。
コーラス 「こうして友は友の手をとり、/新しいきまりをつくり/新しい掟を定めた。/恥辱や、嘲笑に耐えるために、/目をつぶって、/誰も隣の者より臆病にならぬよう/一列に並んで腕を組み/少年を連れ戻した」

《お知らせ》劇団解体社をはじめとする、英国はウェールズ、ブラジル、ポーランド等の国々からパフォーマーが参加する『Dream Regime ――夢の体制』(TAGTASプロジェクト2011参加作品)が上演されます(詳細はこちら)。私は2月8日と10日の公演に行きます。