組長邸(本家)および旧谷崎邸瞥見


土日に神戸で学会があって、私が拝聴した二つのシンポジウムはどちらも大変刺激的なものだった。自分で消化しきれていない部分もあったけれど、とにかく興奮して聴いていた。ここでは、二日目の午後の特別シンポジウムについて気になることがあるので、一言だけ。
O田さんの明解なチャートを背景に行われたO智さんの犀利な発表は、それこそ一言で乱暴にまとめると、戦後アメリカ知識人(文学者)の脱政治的な政治性の系譜をたどるもの。北部の左翼系知識人は、スターリン支配下ソ連の惨状に幻滅し、共産主義と手を切り脱政治化して「中道」寄りになる。他方、南部の農本主義者たちは、みずからのファシズム的傾向を否定するために脱政治化して、やはり「中道」に寄ってくる。その「中道」で両者が一枚岩的に語るのが、脱政治化された「文化」でありリベラル・ナラティヴである。南部に発祥するニュー・クリティシズムは、脱政治化した農本主義者の言説と共犯的、いやむしろそうした言説そのものではないか、ということだろう。こうした分析は、ニュー・クリティシズムの影響下に展開された(と言っていいのかな)日本の英文学研究の非政治的な政治性をも射程に入れていると思われ、満席の会場のなかで脂汗をにじませて聴いていた先生も多かったかもしれない、と想像するのは楽観的すぎるだろうか。 
「気になること」というのは、戦後アメリカ知識人の非政治的な政治性をあぶり出す発表者の立ち位置は那辺にありや、ということ。言い換えると、知識人(特に英文学者)の非政治的な政治性を指摘する身振りが、「政治的な非政治性」を身にまとってしまう恐れはないのか、ということだ。つまり、そうした良心的で「政治的に正しい」爽快な身振りそのものが、胆力を必要とする泥臭い政治を巧妙に忌避する「文化左翼」に特有の身振りとなってしまう危険はないのか、ということが、自分の姿も重なってきてどうも気になるのです。そうなってしまわないために何が必要なのかを模索する試みのひとつが、手前味噌になりますが『レイモンド・ウィリアムズ研究』第2号における関曠野氏へのインタヴューです(刊行は7月中を予定しています)。

写真は、神戸の旧谷崎潤一郎邸の門前から撮った邸外の風景。タクシーで広域指定暴力団組長の豪邸の前を通ったのだけれど、こちらの写真は怖くて撮れませんでした。