『きみがぼくを見つけた日』(ロベルト・シュベンケ,2009)

きみがぼくを見つけた日 [DVD]

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広告されているようなベタベタな恋愛ドラマというよりも、あえてジャンルに分類するならこれはホームドラマだろう。自分の意志とは無関係に過去と未来を行き来する男が主人公なのだが(原題は The Time Traveler’s Wife)、SF色も薄い。現実にはありえない出来事を、主人公とその家族・友人たちが戸惑いながらも静かに受け入れつつ、物語の時間は逆戻りしながら淡々と進む。この「淡々さ」が映画のリズムになっていて、いい。他方で、映画の上映時間(数量的時間)は戻ることなく進んでゆく。これら二つの種類の時間に加えて、観客の心的時間という第三の時間の層もあるだろう。実際私はこの映画を観ながら、今は亡き人々と過ごした時を思い出したり、未来の自分の姿あるいは死を思い描いたりしていた。時間を空間的に(数量的に)捉えるのは間違いだ、時間は持続なのだから、と執拗に唱えた哲学者に倣って言えば、この映画は、数量的時間(上映時間)による束縛から持続を解放することを、死者とともに生きられる日常の淡々とした流れの中で実現しようとしているように思える。
主人公のヘンリー(エリック・バナ)は、特異な遺伝子を持っているため(という理由付けはとんでもないのだが)、自分では予測できないときに予測できない過去または未来へ移動してしまう。この移動は自分では制御不可能だとはいえ、完全にランダムであるわけではない。ヘンリーにとって重要と思える過去または未来の時点にトリップするらしいのだ。たとえば幼少時の、ヘンリーが母親を失った自動車事故の場面。母親の運転する自動車の後部座席で、クリスマスが近いのだろうか、「赤い」衣装を着たサンタクロースを車の窓から見つめながら、歌手である母親といっしょに「ジングル・ベル」を歌っているヘンリーは突然過去に移動し後部座席から消える。次の瞬間に事故が起きて、母親だけが命を落としてしまう。この過去の場面にヘンリーは繰り返し立ち戻り母親を助けようとした(が助けられなかった)ことが台詞からわかる。(成人したヘンリーが過去に戻り、地下鉄に乗っている母親と「他人」として言葉を交わすシーンはじつに切ない。)あるいは、のちに妻となる6歳のクレアに、未来からトリップしてきた中年のヘンリーが出会う場面。クレアが家の近くの野原の端に、大きな「赤い」布を敷いて一人で遊んでいると、藪の中から男の声がする。その赤い布をくれ、と。ヘンリーがタイムトリップするときには、生身の体だけが移動できるため、トリップした先ではいつも全裸なのだ。赤い布を身に纏ってクレアの前に姿を現したヘンリーは、自分が未来から来たことをクレアに告げると、赤い布と靴だけ残してまた消えてしまう。画家になったクレアが、図書館で司書をしているまだ若いヘンリーに出会う時点から流れ出す時間が映画の軸(基本時間)となるのだが、ヘンリーはクレアと結婚してからも、何度もこの野原にトリップしている(この野原は、故郷を持たない/持てない「時の旅人」であるヘンリーの疑似−故郷である)。このように、ヘンリーの意図せざるタイムトリップは、じつはヘンリーの無意識に支配されていることがわかる。ヘンリーは、自分の無意識に翻弄される、全裸で無力の受動的存在であり、何よりもこの受動性が、淡々とした時間の流れの中に映画的アクションを起動させているところが素晴らしい。
ヘンリーは、タイムトリップした先では全裸なので、彼がそこでまずすべきことは、人目から身を隠すこと、盗むか奪うかして衣服を手に入れそれを着ることである。そのためにヘンリーは走り、殴り、鍵を壊し、盗み、また走る。あるときには、適当な衣服がなかったのか、女物のタンクトップにホットパンツという出で立ちで、街のチンピラと喧嘩をしていたこともある。何の意味も目的もない喧嘩であり、変態と見まがうヘンリーの衣装とあいまって、この馬鹿馬鹿しい場面にはちょっと胸を打たれた。人間の孤独そのものが、スクリーン上で鈍い輝きを放っていたように思えたからだ。(ここからややネタバレです。空白部分を範囲指定で反転させてお読みください。)

この孤独な男が、結婚し家庭を持ち43歳で死ぬ。しかしタイムトラヴェラーであるヘンリーにとって、死は、妻たちと共に生きる基本時間からの逸脱にすぎない。42歳の、38歳のヘンリーが、意図せざるときに、肉体を持つ幽霊のようにして、妻たちの前にタイムトリップしてくることがあるからだ。ヘンリーが家族と再会する場所は、もちろん疑似−故郷であるあの野原以外にない。そのときどんな映画的アクションが起動しているのか、それはあえて言わないでおきたい。


《追記》この映画の原作については、id:acropotamia 先生のブログをどうぞ。