「トライアルE」


笛田宇一郎演劇事務所「トライアルE――シェイクスピアリア王』(小田島雄志訳)による――」@フリースペースカンバス、を昨日観た。

冒頭の15分間ほど、舞台奥の壁をスクリーンとして映像が映し出される。沖縄民謡を歌いながら自転車に乗る初老の男(笛田宇一郎)が、劇場の楽屋に入り鏡の前に腰をおろす。男は、長いこと主演俳優の代役であるサブアクターの仕事をしてきたが、舞台に一度も立てないまま劇団から解雇され、頭がおかしくなってしまい、長年人知れず稽古してきたリア王を一人楽屋で演じると、あてもなく自転車を漕ぎ始める。ここで映像は消え、舞台の上手からホームレスになった男が現れ、続いて4人の人物(山田零、寺内亜矢子、岩崎健太、黒田真史)がゆっくりと登場し『リア王』が始まる・・・といった導入からわかるように、本編の『リア王』そのものが劇中劇になっている。
面白いのは、リア王とコーディリアがそれぞれホームレスの老人と少女にもどって、原作にはない台詞を交わすところ。エンディングでも、リア王=ホームレスの老人が、コーディリア=ホームレスの少女の亡骸を前にして「近代」批判をつぶやく。冒頭の映像がプロジェクトされ再提示(リプレゼント)された表象だとするならば、これに比して舞台上の『リア王』は、提示(プレゼント)あるいは生産(プロダクト)された「物質」といえるのかもしれない。
しかし、先にいったように、本編の『リア王』さえホームレスの二人によって相対化され表象とされているのであり、また、そのホームレスの老人自身、もともと映像=表象の中の存在だったわけだから、この『トライアルE』は、「表象の舞台から生産の工場へ」(ドゥルーズ=ガタリ)を捩っていえば、「表象のスクリーンから生産の舞台を経て表象の舞台へ」という、表象の合わせ鏡的世界、表象の無間地獄を「提示」しているのかもしれない。だが、ここに穴を穿つ不気味な人物がいる。ホームレスの少女=コーディリア(黒田真史)である。ホームレスの少女は、舞台上の『リア王』を相対化しつつ、ホームレスの老人のように映像へと差し戻されることがない。冒頭の映像には登場していなかったからだ。この少女だけが出所不明な存在の不気味さ、つまり再提示=表象ではない「物質」の不気味さを身に纏っている。事実、『リア王』上演中ずっと、少女は舞台の隅に腰を下ろしてパンを食べたり白水社版『リア王』(たぶん)を読んでいたりして、表象の舞台における異物として機能している。この少女=コーディリアは、犯されたのち絞殺され、まさしく亡骸として物質になるわけだが、ホームレスの老人=リア王の、「インターナショナルな組合が必要なのだ」というエンディングにおける台詞も、少女のリアルな亡骸を前にしてのものだからこそ、アクチュアルな「発言」となっているのだと思う。
とにかく、鍛え抜かれた役者さんたちの身体=言語が圧倒的だった。『トライアルE』は本日(10日)が楽日です。詳細はこちら