中村登『河口』

3.22シンポジウム無事終了。会場に足を運んでくださった方々、オーガナイザーのK先生、裏側からシンポを支えてくださった、S子さんをはじめとする日本女子大学のビューティーズのみなさん、どうもありがとうございました。それから報告者のみなさん、お疲れ様でした。 

さて、二月にスクリーンで見た映画は、成瀬巳喜男三十三間堂 通し矢物語』(1945年)、『流れる』(1956年)、中村登『河口』(1961年)、田中登『女教師 私生活』(1973年)、小沼勝夢野久作の少女地獄』(1977年)、井口奈己人のセックスを笑うな(2007年)だけで、見逃したものは数知れない。特に、日仏学院その他で組まれていた「ジャン・ルノワール特集」とNFC(国立フィルムセンター)の「マキノ特集」。だがそのことはもう考えまい。体に悪い。「ルノワール特集」第二弾が四月からNFCで始まるので、この特集には人間関係を悪くする覚悟で通いたい。これはブレヒト=レイモンド・ウィリアムズ的「選択」の問題だ(ろうか)。

それで、上に挙げた映画について何か書こうと思ったのだけれど、どうも書く「旬」を過ぎてしまったようで気が乗らない。いや、それぞれのフィルムは面白く、たとえば成瀬『流れる』などは何度見てもため息をついてしまうし、初めて見た中村登『河口』は、小津組以外のときでも厚田雄春キャメラはこれほど素晴らしいのかと感嘆し(特に岡田茉莉子田村高廣が入る銀座の喫茶店の観葉植物の緑は何なのだろう)、それだけではなくこの映画における金と女をめぐる欲望の渦のなかで冴えない道化役を演じる山村聡が、いつもの役どころとは異なる風采で岡田茉莉子に「あの男に本気で惚れたんですか、あーっヤダ!」と、嫉妬心からではまったくなく恋愛事に対する純粋な軽蔑心からヒステリックに叫ぶところなど哄笑を抑えることはできないわけだが、この叫びには性とジェンダーと資本主義をめぐるポリティクスが凝集されていることに気づいて、笑っている場合ではないなと思いながらやはり数秒間は身を捩るほかはなかった自分のモラリストぶりを省みると、中村登がやはり岡田茉莉子山村聡のコンビで撮った『班女』(1961年)を見逃してしまったのはモラルに反する行為であったと反省せざるをえない、といった調子で他の作品についても書けばよいのだけれど、やはり気が乗らないのだから仕方がない。(井口奈己人のセックスを笑うなについては、あとで何か書くかもしれません。)