『接吻』 

昨日12日、勤務先での仕事と「活動」の後、久しぶりに映画館へ。万田邦敏監督『接吻』(2006年)をユーロスペースで見る。じつは映画を見ている場合ではないのだが、このフィルム、昨年秋の東京フィルメックスでの上映時にうっかり見逃していて、数年前に万田監督の『UNLOVED』(2002年)にすっかり打ちのめされた私としては、『接吻』にだけは何としても駆けつけたかった。

完全にやられた。一夜明けてこうしてキーボードを叩いている今も、言葉にされることを拒む大きな塊が胸の淵に沈んでいる気がする。この内部感覚が薄れていくにつれて、私の無恥はますます厚顔になっていくのだろう。それがいやだから、映画を見続けているのかもしれない。

UNLOVED』でも孤立したヒロイン(森口遥子)の佇まいが印象的だったが、この『接吻』ではヒロイン(小池栄子)の孤絶ぶりの強度が一層凄まじくスクリーンに現前する。このフィルムの小池栄子は現代のアンティゴネーだ、などという安易な比喩が頭をよぎる。とにかく、小池を始めとする役者たち(豊川悦司仲村トオル、それから篠田三郎もいい)、脚本、撮影、編集、照明、音響などすべてが素晴らしい。ワン・シーンだけ挙げると、小池栄子仲村トオルが緑の戸外を歩きながら言葉を交わす場面は、台詞の長さからしてフィルムの緊張感を損ないかねないところだが、息をのむ編集によって逆に、小池と仲村の接近とすれ違いの切迫感を高めている。それから、収監所の面会室で、透明な仕切りを隔てて小池が「少し眠ってもいい?」ときくと豊川が「いいよ」とつぶやくところ。こうした面会室はしばしば映画の舞台となるが、こんなやりとりが交わされたことがかつてあっただろうか。

話題のエンディングまで見て、傑作映画はすべて「アクション」映画なのだとあらためて思う。『接吻』の公式サイト(こちら)で、若尾文子先生が「以前、増村保造監督と撮った作品をフト想い出し…」と書かれているが、私もその「作品」を想い出した。その増村作品のタイトルは、これから『接吻』を見るひとたちのために、まだいわない方がいいと思う。


〈追記:4月5日〉誤字を訂正しました(中村→仲村)。