アフォーマティヴ、ストライキ


1月6日のエントリーで書いたように、ハーマッハーとド・マンのつながりが気になるので、田崎氏の「無能本」の「文献案内」も参考にしながら、ハーマッハーの著作・論文をいくつか集めた。で、タイトルからして刺激的な Verner Hamacher, “Afformative, Strike: Benjamin’s ‘Critique of Violence’”(下に貼り付けた本に入っている英訳版)をまず読んでみた。

著者自身、「未完のフラグメントにすぎない」といっている通り、高密度のテクストでありながらまだ荒削りで、論旨の繰り返しも多い(偉い人に失礼ですが)。「アフォーマティヴ」という魅力的な概念の説明ならば、『他自律』の「日本語版への序文」における解説の方がはるかに洗練されている。しかしこの論文は、「68年の風」とド・マンがベンヤミンを介してハーマッハーの中で密接に関わっていることを示しているという点で、私にとっては大変興味深い。つまり、暴力と、法および正義(が表す倫理の領域)との関係を考察することが、言語の考察と不可分であるということを、この論文が勢いよくかつ執拗に強調しているということ。 

ハーマッハーは、ベンヤミンの「暴力批判論」(1921年)と、あの密教的とも思える「言語一般および人間の言語について」(1916年)とが、同じ基本概念を土台にしているという。この「基本概念」を表す最も重要な語のひとつが「媒質 Medium」である。

神話的暴力、つまり法措定的暴力と法維持的暴力は何らかの目的に奉仕する単なる手段にすぎないが、そうした一切の法的暴力(国家暴力)の根絶を課題とする神的暴力つまりプロレタリアートゼネストは、「純粋な」手段として非暴力的である、とベンヤミンはいう。いったいどういうことなのだろうか(デリダが『法の力』で述べているように、ベンヤミンのこのテクスト自体曖昧なところが多い。それだけ一層解読の欲望がかきたてられるわけだが)。

ここでハーマッハーにならい、ベンヤミンの「言語一般および人間の言語について」を見てみよう。

言語は何を伝達するのか?言語は自身に合致する精神的本質を伝達する。この精神的本質は自己を言語において(in〔…を媒質として〕)伝達するのであって、言語によって(durch〔…を手段として〕)ではない――すなわち、精神的本質は言語的本質に外側から等しいのではない。(中略)ある精神的本質にあって伝達可能なもの、それが、この精神的本質のもつ言語的本質である。(『ベンヤミン・コレクション1』11頁)

ベンヤミンによれば、人間は名づけることによって、自身の精神的本質を言語的本質として(神に)伝達する。精神的本質と言語的本質とは別のものだが、精神的本質にあって伝達可能なものが「そのまま直接に」(12頁)言語そのものなのである。この「そのまま直接に」を原書と英訳でどういっているのか調べていないが(英訳本は明日届くはず)、おそらく英訳では ”immediately” と訳されているだろう。つまり、言語は精神的本質を伝達する「媒質」なのだが、言語という「媒質」は、精神的本質を伝達する(外的な)手段=道具ではなく*1、無媒介的に(「そのまま直接に」) 精神的本質の伝達可能性そのものとなっている伝達手段=メディウムなのである。言語をめぐる、こうした媒質(媒介)と直接性(無媒介性)とのからまり具合を押さえておくことが大切だ。でないと「暴力批判論」もハーマッハー論文も(さらには「無能本」も)わけのわからないものになってしまうだろう。

そしてベンヤミンはこうもいっている。「言語はすべて、最も純粋な意味で伝達の〈媒質〉(Medium)なのだ」(13頁)、と。したがって、神的暴力が〈純粋な〉手段であるということは、神的暴力が、何らかの行為(法措定であれ法維持であれ)を遂行するための手段=道具ではなく、それ(神的暴力)自体が「そのまま直接に」行為の遂行そのものであるということなのだ。*2 神的暴力すなわちプロレタリアートゼネストはだから、法措定や法維持が(パフォーマティヴな)行為遂行であるのとは異なる水準おける行為遂行なのであり、後者の意味での行為遂行をハーマッハーは「アフォーマティヴ」と呼んでいるのではないだろうか。それは、法を措定したり維持したりする行為遂行を中断、停止させ、一切の法的暴力を廃棄する行為遂行、すなわち中断遂行的行為 afformance なのである。

最後に付け加えると、以上見たようなハーマッハーのいう「アフォーマティヴ」は、ド・マン『美学イデオロギー』における「アイロニー」(「時間性の修辞学」におけるそれではなく)、つまり歴史記述や物語の体系性を中断、破綻させる破壊的「アイロニー」のいい換えといってもよいくらいだ(そこでもやはりベンヤミンが言及されていた)。さらにいえば、ド・マンの “Heidegger’s Exegeses of Hölderlin” におけるハイデガー批判において最も重要な語が “mediation” およびその派生語、あるいはヘルダーリンの「中間休止caesura」という語であったことを思い出す。


〈追記〉
「暴力批判論」における「人間」については触れることができませんでしたが、興味のある方はちくま学芸文庫『ドイツ悲劇の根源(下)』の272−279頁をごらんください。


Walter Benjamin's Philosophy:
Destruction and Experience

Andrew Benjamin (編集), Peter Osborne (編集)
ペーパーバック: 312ページ
出版社: Clinamen Pr Ltd; 2版 (2000/06)

*1:こうした道具的言語観を、ベンヤミンは「ブルジョワ的」と呼んでいる。

*2:アガンベンは『例外状態』において、こうした「純粋さ」について別の角度から論じている(第4章の特に121−5頁)。しかし、このアガンベンの説明は誤解を招きやすく問題が多い、と思うのですが。