理論(のアポリア)という経験

先日3日のエントリーで言及した『他自律』について少し。著者のハーマッハーは、文化の、資本の、民主主義のアポリアを剔抉しつつ、カントが「人倫の形而上学の基礎づけ」で説いた、自己愛を挫折させる「尊敬」という概念を徹底化することで、共約不可能な特異性としての他者(としての自己)への「開かれ」を、まさしくアポリアの「経験」の只中に見出そうとする。「アポリア」というと、「厳密さの追求の果てに理論は行き詰まった。あとは実人生における実践あるのみ。」というような、執拗に回帰してくる「理論と実践」、「理念と現実(実利)」というシニカルな二分法を想起しがちだけれど、ハーマッハーにそのようなシニシズムは感じられない。なぜなんだろうと考えてみると、どうもこの人がマルクスを手放していないからじゃないかという気がする。この本の中でマルクスが言及される部分は少ないが、たとえばこんな件。

ブルジョワ的な利害関心の排他性を「人間的利害関心そのもの」という理念によって突破すること、理念のこの先行、この過剰、この誇張は、マルクスにとってただ単に物笑いの源泉であるだけでなく、社会的そして経済的な解放を駆り立てる諸々の力の源泉でもある。理念とは、利害関心が自己自身に先行してしまっている、ということ以外のなにものでもないものである。それは、偏狭な利害関心が別の、排他的でなく普遍的な諸々の利害関心へと開かれる、ということである(77頁)。

しかし、コンパクトで有用な「訳者解説」によると、マルクスは資本のアポリアの核心を衝きながらも最終的にはそこから目を逸らしてしまった、ハーマッハーはそこにマルクスの不徹底をみる、とある。私が間違っているのかもしれない。ただ、この本から吹いてくる風には、どことなく「68年」の匂いがする(著者は48年生まれ)。ガタリネグリの『自由の新たな空間』のような。それから、読み終わってから知って意外に思ったのだけれど、ハーマッハーはド・マンとも関係が深いようだ。ハーマッハーの学位請求論文(ヘーゲル論)の審査にド・マンが加わっていて、また、ド・マンの Allegories of Reading をハーマッハーがドイツ語に訳し(抄訳)、序論も書いているという。それに、ド・マンの Wartime Journalism, 1939-1943 の編集もしている。「68年の匂い」とド・マンとがハーマッハーの中でどうつながっているのか(いないのか)、考えてみると面白そうだ。
『他自律』の基となった、国際学会で読まれたペイパー(英語)が収録されている下の本(寄稿者にはデリダアガンベン、キャシー・カルース、サミュエル・ウェーバーらの名前がある)、早速発注。

Violence, Identity, and Self-Determination

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