『人のセックスを笑うな』

1年ほど前のエントリーで、井口奈己監督の『犬猫』(2004年)を取り上げたが、その井口監督の商業映画第二作『人のセックスを笑うな』が1月19日よりロードショー公開される。と聞いて、山崎ナオコーラの原作を読んだ。

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

いい。とてもいい。かつて『犬猫』について、唯物的な意味で「空気」を描いた映画だ、と書いた。「空気」とは、人と人とを、人と世界とを媒介していると同時に、世界そのものでもあるエーテルみたいなもので、私が相手の寝息や世界の囁きを感受するのは、「空気」の震えや抵抗やそれを透過する光の屈折をつうじてだ。私が直接触れているのは「空気」であって、相手や世界は「空気」の向こう側にいる。いや、私ですら「空気」を媒介しなければ私に近づくことはできない。私も「空気」の向こう側に漂っている存在なのだ。しかし、いつのまにかそうした「空気」はスピリチュアライズされ、内面化され、「KY」なんていうジャーゴンが流通し、向こう側にあるものが自意識の投影や道具的存在になってしまった。だから、この時代の傲慢で退屈な心霊主義から「空気」を救出する必要がある。「空気」への感受性を鍛えることで、「空気」を媒介することで、相手や世界や私は別のものとして立ち現れてくるかもしれない。『犬猫』と同じく、山崎ナオコーラ人のセックスを笑うな』は、唯物的な意味で「空気」を描いた小説だ。それは冒頭の2行を読むだけでわかる。

ぶらぶらと垂らした足が下から見えるほど低い空を、小鳥の群れが飛んだ。生温かいものが、宙に浮かぶことが不思議だった。

「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」(120頁)。たぶんね。だって、あのときの「空気」はいまここにあるのだから。