かなうものなら、ハンプティ、かけてよもっとバイアスを 

昨日と一昨日の電車の中で、原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年)を読む。アマゾンの読者レヴューを見たら評価がとても高いので、ここで少々悪口を言っても営業妨害にはならないだろう。
「政治の季節」は72年で終わっていない、それ以降も小学校を舞台にして「政治」の嵐は吹き荒れていたのだ、と。ええ、それがなにか?以前この本に関するshintakさんのエントリーを読んで抱いた感想と、読後感はほとんど変わらない。shintakさんのコメントがそれだけ的確だったということだが、残念ながら私にとっては不要な本だったということでもある。通俗的な物語。受けがいいわけだ。いまだ適当な距離を保てない過去の記憶を扱うのなら、変にバランスをとろうとせずに、思いっきり「偏向」してほしかった。5組を核として重苦しく広がる集団主義、恥辱に満ちた「追求」のこと、423列車へのフェティシズム河合久美子への恋心等々を語る言葉は、本当なら失語のどん底から響いてくる地鳴りのようなものとして発せられるべきだ。少なくとも私の胸は、そうした言葉でなければ共振しない。原氏にとって言葉はコミュニケーションの道具にすぎないのだろうか。なにもジョイスベケットカフカを見倣えとはいわないが、母語への抵抗がないから、母語による抵抗が通俗的な物語に回収されてしまっている。いや、じつは私も「物語」は好きなんですけどね。