カメラがおいらの拳銃さ

hidexi2007-09-02


『愛欲の罠』に触発されて、映画における狙撃と観ることの欲望について、昨日ちょっと思いついたことだけ書いたけれど、その後、フィルムにおける狙撃シーンが、映画を観ることと撮ることをめぐってより高度な反照性(再帰性)に達している作品があったことを思い出した。

それはヴェンダースの『ことの次第』(1981年)だ。(以下、記憶違いがあるかもしれません。)映画制作費が絡んだ金銭トラブルでマフィアに追われる映画プロデューサー(写真右)が、キャンピングカーで暮らしながら逃亡している。そこに主人公の映画監督(写真左)がやってきて、撮影資金のことなどについて話し合った後、二人が車を降りると、どこからか銃声がしてプロデューサーが倒れる。そのとき、主人公は咄嗟に手持ちの撮影カメラを見えない敵に向けて拳銃のように構えるのだ。すると、主人公の構えるカメラが撮る映像がスクリーンを占め、再び何発か銃声が響くと、スクリーンの映像(主人公の手持ちカメラが写している映像)が激しく揺れ、傾いたまま地面を写して静止したところで、フィルムは終わる。 

『愛欲の罠』では、白いスクリーンの前に立つ(つまりスクリーン上の映像であるかのような)殺し屋が、客席で正面を向いているボス、そしてボスと同軸上に位置する私たち観客を狙い撃つのだが、フィルムそれ自体は無傷だ。これに対して『ことの次第』では、(姿の見えない)敵に狙撃されるのはカメラ=拳銃を構えた映画監督であり、しかも、倒れた監督の手持ちカメラが写す乱れた映像がこのフィルムのエンディング・ショットとなっている。まさしく「映画の死」をめぐるアレゴリーだ。 

ドゥルーズは、『ことの次第』についてこんなことを言っている。

「映画が、行動イメージの危機の中で、みずからの死についてのメランコリックでヘーゲル的な反省を通過することは、宿命的であった」(『シネマ2*時間イメージ』邦訳版、107頁。) 

とはいえ、映画における拳銃・狙撃をめぐる(ヘーゲル的?)反照性については、まだ考えるべきことがあるような気がする。

まぁ、そんな小理屈はともかく、『ことの次第』は、冒頭のレトロな「SF劇中劇(映画中映画)」からすでに終末論的ムードが濃厚で、ポルトガルの侘しい海岸を舞台とするこのシークエンスの、「世界の果て(終わり)」を感じさせる光と風が印象的だ。『ことの次第』は、ヴェンダースの作品の中でも、『都会のアリス』(1974年)、『さすらい』(1976年)と共に、私の好きなフィルムの一つです。あの頃のヴェンダースは、「映画の死」を最高の充実度で「生きて」いた。時代とシンクロしていたという感じ。『ベルリン・天使の詩』(1987年)以降はちょっと…。