で、どうする? 

id:shintak さんと id:malenie-ji-woo さんのところに報告・感想等があるように、昨日、同人誌の共同討議を行ってきた。録音した音声データを聞きながら改めて思うのだが、演出家のS さんとパフォーマーの H さんに参加していただいて本当によかった。この場をかりてお礼申し上げます。  
語るということは語り残されるものをつくるということでもあるから、言い尽くせないことがあったのは仕方がないのだけれど(それにそもそも私は主に聞き役のつもりで参加していたのであまり発言していない)、言い残したことをここで少し。
絓秀実が今から8年前に、大逆事件をめぐる近代日本の文学言説について、ラカン-ジジェクに大きく依拠しつつ刺激的な本を著している。

「帝国」の文学―戦争と「大逆」の間 (以文叢書)

「帝国」の文学―戦争と「大逆」の間 (以文叢書)

著書全体について詳述はできないが、そこでは、従来の「フェティシズム批判」の延長線上で革命(王殺し)が語られる。著者は、「フロイトは「フェティシズム論」において、フェティシズムを、ファルスの不在とその否認と定義した。(中略)その否認こそがフェティシズム的身ぶりにほかならない。」という「通説」にもとづき、ファルスの不在(つまり去勢)の否認を否認する女、つまりフェティシズムを批判する菅野すが子の無意識(隆鼻手術の失敗)に、革命的身ぶりを読み込んでいる。しかし、フロイトの「フェティシズム」(『エロス論集』ちくま学芸文庫)を読めば、フェティシズムがファルスの不在(去勢)の否認と承認の両方から構成されていること、フェティシズムをめぐる「通説」は事の半分しか語っていないことがわかる。

非常に精密に構築されたフェティシズムでは、フェティシズムの対象の構造そのもののうちに、去勢〔ファルスの欠如〕の否認と確認の両方が組み込まれているのである。(中略)主体がフェティシズムの対象を〈崇拝〉していると考えるのは片手落ちである。(中略)フェティシズムの対象は、情愛をもって扱われると同時に、敵視される。この矛盾は、去勢の否認と承認が同時に行われるためである。(290-1 頁)

このフロイトのテクストに立ち返るなら、菅野すが子は不徹底なフェティシストということになり、むしろ、著者が「フェティシズム批判をあらかじめ内面化したフェティシスト」と呼ぶ永井荷風、ファルス(日本)それ自体は存在しないことを知っているが、それゆえにそれ(日本)を享楽するという、徹底したフェティシストである永井荷風の解消不可能な両義性が問題になってくるだろう。つまり、フロイトのテクストの「読み」から出てくるのは、フェティシズム批判はその肯定に反転し、それがまた逆転し・・・という、「よくある」決定不能性なのだが、ここで言いたいことが二つある。
第一に、脱構築が読解技法の一つとしてマニュアル化され、誰もが「決定不能性」などと軽く口にするようになったけれど、操作的にではなく、「読み」という経験に強いられて「決定不能性」という袋小路に追い詰められている「身体」などめったにない、ということ(批評的アクションが前提とする圧倒的受動性)。 
第二に、ちょっと一般化すると、「袋小路」は脱構築がもたらすもの以外にいろいろある。その最たるものが討議のテーマの一つでもあったポストフォーディズムだろう。問題は、「袋小路」に追い詰められ、その袋小路のありようを正確に記述したあと、「で、どうする?」ということだ。フェティシズムに話しをもどせば、たとえばデヴィッド・グレーバーのように、新たな社会的現実を創造するために「あえて」フェティッシュを用いるということも考えられるだろう。しかし、この「あえて」が呼び寄せてしまうシニシズムにも注意が必要だ。
で、どうする?  
圧倒的受動性を前提とする批評的アクションは、「で、どうする?」という素朴なつぶやきに促されて始動(しようと)する。

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

ご恵贈いただきました。どうもありがとうございます。『動物農場』だけでなく、「出版の自由」と「ウクライナ語版のための序文」が付録として訳されているのはありがたい。それぞれに懇切な訳注が付されていることも。訳者のお仕事ぶりを拝見するたびに襟を正しているのは、わたしだけではないだろう。
〈追記〉今日の夕方に、何となくヴェランダに出たら虹が見えた。虹を見るなんて何年ぶりだろう。このエントリーに記録しておきたかったので、日付が変わる前に急いで追記します。