女の道


仕事と「活動」のあと、成瀬巳喜男『君と別れて』(1933年)と同『夜ごとの夢』(1933年)をアテネ・フランセ文化センターで。二本とも松竹蒲田時代のサイレント作品。これだけは見たいと思って数ヶ月前から手帳に予定を書き込んでいたので、団交が入らなくてよかった。
これら二本に共通して興味深いのは、被写体に向かってキャメラが前進移動することによりズーム・アップの効果を生み出す技法が頻繁に使われていること。この技法、成瀬初のトーキー作品である『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)でも見られたが、成瀬独自の文体が確立される過程で捨てられていったものなのだろう、その後の(私の見た)成瀬作品ではお目にかかれない(と思う)。だがそんなことよりはるかに刺激的なのは、成瀬映画では、戦っているのはいつも女だということ。いや、より一般化して、「本当に」戦っているのはつねに女なのだということを成瀬は教えている、と言いたいほどだ。特に『夜ごとの夢』では、夫(斎藤達雄)が或る悲劇的行為をしたあとで、その妻(栗島すみ子)が吐き出す「弱虫!」、「意気地なし!」という台詞が、通常より大きな活字で(しかも前述したズーム・アップ的技法で)字幕に出る。なぜ逃げるのか、と栗島すみ子は死者を責める。(戦闘開始って言ったじゃない、と『接吻』の小池栄子なら言うだろうか。)すさまじい。だから戦っているのはいつも女なのであり、ということは、男が「本当に」戦っているときには「女」に生成変化しているのであって、しょうもないマッチョ同士の「ドンパチ」は勝敗が計算可能な擬似戦争ゲームにすぎないのかもしれない。学生募集停止撤回運動のスローガンはだから、「女に・なりたい」。