2019.12.14日本ワイルド協会大会シンポジウム@日本女子大学

【シンポジウム】ロマン主義の遺産とオスカー・ワイルド

ポール・ド・マンは、『ロマン主義と現代批評』やその他の著作で次のような意味のことを述べている。ルソー、ワーズワス、ヘルダーリンらは、ロマン派一般だけではなく現代の批評家をも規定しているロマン主義という制度への批判者として定位される、と。つまり、ロマン主義文学一般は、その始まりにおいてなされた「真正な」批判を忘却することによって存在しているというわけである。そうだとすれば、「ロマン主義の遺産」の相続は二重の意味を帯びることになる。制度を(意識的または無意識的に)受け入れるという意味と、忘れ去られた原初の批判を思い出すという意味との二重性である。本シンポジウムでは、内面・魂と外面・身体との調和という制度的ロマン主義の主題にとらわれ続けたかに見えるワイルドが、「ロマン主義の遺産」を二重の意味でいかに相続した/相続しなかったのかを、登壇者それぞれの視点から探ることをつうじて、ロマン主義がはらむ近代の諸問題を再検討したい。  


パラドクスとロマンティック・アイロニー
鈴木英明

周知のように、ワイルドのテクストはパラドクスに満ちている。『ドリアン・グレイの肖像』においてヘンリー卿が説く新ヘドニズム(「感覚によって魂を癒し、魂によって感覚を癒す」)や、『獄中記』において語られた芸術家の理想(外面が内面を表現し魂が身体と統一される状態)などはその典型だろう。しかし、こうした内面と外面の統一、いわばロマン主義的全体化は、ワイルドのテクストにおいて最終的に成就することはない。つまり真のパラドクスは、内面/外面ではなく、分裂/統一というパラドクスなのである。このパラドクスは、主体化という水準においては、永遠に繰り返される自己の二重化(自己が自己自身に一致しないこと)として現象する。これが想起させるのは、ドイツのロマン派フリードリヒ・シュレーゲルの言う、「自己創造と自己破壊の絶え間ない交替」つまり「ロマン主義的イロニー」である。またシュレーゲルによれば、このイロニーにおいては「すべてが戯れであると同時に真面目である」。本発表では、こうしたイロニーという観点から、ワイルドとロマン主義との関係を考察する。 


オスカー・ワイルドと批評の習慣
騎馬秀太

以前に比べて文学・批評理論が読まれなくなったと言われるようになって久しいが、現代は同時に批評あるいは批判に満ち溢れた時代でもある。そんな逆説的な状況にあって、批評史において常に参照先とされてきたロマン主義における「批評・批判」から現代の我々は何を引き継ぎ、あるいは引き継ぎ損ねているのか。本発表はイヴ・セジウィックやリタ・フェルスキらが呈示したポスト・クリティークの議論を参照しつつ、ロマン主義的な批評実践が抱え込んだ「苦境」の反復をオスカー・ワイルドの「芸術家としての批評家」のうちに見出すことを通して、現代の我々が図らずも体得している「批評の習慣」の問題点と可能性を明らかにしたい。ポリティカル・コレクトネスなど、批判そのものが機械的な習慣、紋切り型として機能している現状において、いかに批評を実践していくべきか。ロマン主義の遺産のうちに、批評を活性化させる新たな習慣の可能性を模索したい。


反近代としての近代主義ーーオスカー・ワイルドにおける表象をめぐる問題系
遠藤不比人

吉田健一の至言「近代はワイルドから始る」は、この芸術家=批評家が反近代主義者としての近代主義者(modernist)であったことを喝破するが、本発表はこの洞察を近代芸術と「表象(representation)」という点から再考する。特にワイルドの批評言語は、最終形態として印象派として現象した近代芸術における表象主義を批判し、それに代わって「表出(expression)」を特権化している。後者は、芸術(言語)が別の何かを代理=表象するのではなく、それ自体が或る何か(例えば不可視の「魂」)を内包する(宿す)形で体現するという含意として解釈できる。この芸術論は、20世紀のアヴァンギャルド芸術(その先駆はポスト印象主義)に結実するものだが、それは例えば、ポール・ド・マンがいう「ポスト・ロマン主義」たる近代表象の根源的な批判ともなっている。その政治的かつ歴史的含意について論じたい。 


オスカー・ワイルド、あるいはポストロマン主義の逆説
中山徹

ロマン派以来、詩はみずからを正当化する必要性に直面してきたが、この使命はますます困難になっている――この「ポストロマン主義の苦境」(ド・マン)は、ワイルドにおいて反ロマン主義的なロマン主義とでも言うべき逆説を生んでいるように思われる。彼は、詩を含む芸術は「無用である」と規定することによって逆説的に芸術を正当化したのではなかったか。また彼の美学は、ロマン派一般を積極的に評価しないにもかかわらず、表面的にはロマン派と同じく古代ギリシアに範を仰いでみせる。そして彼がこの一見して反ロマン派的な芸術論に込めた内容(芸術としての批評、自己意識、反自然)と、それを語る際に採用した形式(議論の絶えざる偶発的な中断を誘発する対話体)は、ロマン派の反省性や反自然的な想像力に焦点をあてたド・マンのロマン主義論や、その特権的な参照項であるF・シュレーゲルの文学論(ロマン主義文学の本質としての機知、永遠のパラバシスとしてのアイロニー)をふまえて考察されてしかるべき特性をもっている。