中山徹『ジョイスの反美学―モダニズム批判としての「ユリシーズ 」』

 中山さんの待望の著書が彩流社から出版されます。詳細はこちら。書店に並ぶのは2月25日とのこと。故あって原稿を読ませてもらいましたが、第一章がレイモンド・ウィリアムズ『文化と社会』の引用から始まっていてちょっとびっくり。著者の属する研究環境からいい刺激を受けているようですね。簡単に紹介するとこんな感じです。 

 本書は、ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』の読解を通じて、西洋のモダニズム芸術に特徴的な「政治と美学との結託」を歴史的かつ理論的に吟味するものである。筆者は、カントにまで遡行することによってモダニズム美学の特質を理論的に明らかにし、その美学がはらむ政治性を歴史上の具体例に即して考察しつつ、こうした美学=政治に『ユリシーズ』がいかに抗うものであるかを、ラカン精神分析の知見を導入しながら明解に示している。本書の最大の価値は、20世紀初頭のモダニズムにおける「政治と美学の結託」を、文化の美学化とモダニティの美学化という二つの視点から整理し、こうした美学化とそれに対する批判を、「性化の式 formula of sexuation」という理論的枠組みのポテンシャルを最大限に活かしつつ論じきったところにある。性化の式とは、フランスの精神分析ジャック・ラカンが提示した図式であり、言葉を話す人間にあって特徴的な男女の性差(この性差は、ジェンダーあるいは生物学的な性差とは異なる)を、述語論理学や集合論の概念を応用しつつ形式的に説明するものである。ラカン派と目される合衆国の批評家ジョアン・コプチェクは、この性化の式における「女性の側の式」(非-全体 not-allの論理)と「男性の側の式」(例外よる全体化の論理)とが、カント『純粋理性批判』における第1、第3アンチノミーと(さらには、『判断力批判』における数学的崇高と力学的崇高と)同型であることを明らかにしている。筆者はこうしたラカン派の性差理論を十分に咀嚼したうえでみずからの研究に活かしている。いやむしろ、筆者によるモダニズムの政治=美学をめぐる研究により、性化の式に新たな可能性が見出されたというべきだろう。筆者は、20世紀モダニズム美学の底流となっている、オスカー・ワイルドに代表される英国世紀末審美主義の「観照」の美学に「例外による全体化の論理」を見出し、これがファシズムに結びつく必然性を明らかにする一方、『ユリシーズ』に「not-allの論理」を読み取ることによって、この小説が上記の美学(ファシズム)に抗う論理を持つことを説得的に論じている。以上のような、ラカン派の性化の式という視点からモダニズム(およびそこに内在する政治=美学)を論じた研究は、管見によればきわめて稀である。また、これまで膨大な量が積み重ねられてきた『ユリシーズ』研究においても、性化の式を中心に据えた本書は異彩を放っており、学術的にもきわめて重要な貢献を果たしている。

ジジェクやコプチェクの感想がききたいので、中山さん、ご自身で英訳をお願いします。 
 第八章におけるジョイスと「名前」をめぐる議論については、私は著者と異なる考えをもっていて、大昔に論文にも書いたのですが、この点については次回の「ロ・マン読書会」でお会いしたときにでも。