石の賛美歌

ミッシェル・クレイフィ監督『石の賛美歌』上映のお知らせ。
日時:2013年11月23日(土)12:30より
場所:横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホール
以下、チラシや下のHPに掲載されている情報です。

Canticle of the Stones (山形国際ドキュメンタリー映画際 '91特別賞受賞)
監督/ ミシェル・クレフィ/ベルギー/1990年/アラビア語/カラー/35mm(1.66)/105分/日本語字幕あり[映像提供/ 山形国際ドキュメンタリー映画祭

イスラエルの街を舞台としたこの作品は、その土地に切り放すことができないアイデンティティを持ったパレスチナ人の日常生活の緊張、生きている場所そのものが闘争の場であり、自国にいながら亡命者の立場を強いられる彼らの苦悩、そして その中に恋人たちの再会という愛の物語を並置して、魅力的でいいようのない存在感をもつものとなっている。

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参考文献として、鵜飼哲「破壊された時を求めて――ミシェル・クレイフィ『石の賛美歌』のために」(『抵抗への招待』みすず書房、1997年 所収)。

『風立ちぬ』の吐血ショット 

 宮崎駿監督『風立ちぬ』で菜穂子が血を吐くショットがずっと気になっている。見てからひと月ほど経つので細部の記憶はあいまいになっているのだけれども、結核を病む婚約者の菜穂子が吐血したとの電報を名古屋で受け取った二郎が、東京の自宅にいる菜穂子を見舞うために汽車に乗っているシーンがあって、そのシーンに1秒ほどの吐血ショットがはさまれていたように思う。菜穂子と二郎が初めて出会ったのは避暑地の高原で、そのとき菜穂子は(上に貼り付けた画像のように)絵を描いていた。吐血のショットでは、その高原らしい草地にじかに置かれたキャンバスの上に、ほぼ垂直に勢いよく吐かれる多量の血がアップで映される。 

 まず気づくのは、いくつかの色の絵の具が塗られた製作途中のキャンバスに吐かれた血が、明らかに絵の具の換喩となっていること。実際その血は、血というにはあまりに淡い。かつてゴダールは、あなたの映画ではたくさん血が流れますねと言われて、「あれは赤いペンキです」と応じたが、菜穂子の吐血のショットは、ショット自体が「これは赤い絵の具です」と主張しているかのようだ。これまでの多くの宮崎作品と異なり、『風立ちぬ』では「ファンタジー」という枠が最初からはずされているように見えるが、この作品のなかでもっとも生々しい身体性を帯びるはずの吐血のショットですら、血=絵の具によってファンタジー化されている。

 吐血ショットのファンタジー化に貢献しているのは血=絵の具だけではない。吐血の場所もショットの非現実性を強調している。先に述べたように、このショットで菜穂子が吐血するのは「高原らしい草地」である。しかし、吐血した後に菜穂子が寝ているのは東京の自宅なのだ。避暑地の高原で吐血したとすると、そんな菜穂子を東京の自宅まで移送するということは考えにくい。だが菜穂子が吐血したのは(物語内の)事実である以上、あの吐血ショットの場所はいったいどこなのか? もっとも受け入れやすい答えは、それは「どこでもない場所」、つまり吐血ショット自体、(この作品の多くの部分を占める、二郎の夢のシーンと同類の)二郎が幻視した白昼夢である、というものだろう。吐血のショットが、二郎が名古屋から東京へ向かう汽車のシーンにはさまれており、さらにそこで二郎が嗚咽することを思えば(泣いた本当の理由は “ほかの人にはわからない” 「ひこうき雲」)、菜穂子が吐血した場所が、二人が初めて出会った思い出の高原に(二郎の白日夢のなかで)置換されたとしても不思議ではない。

 だが別の解釈もありうる。この吐血ショットは、二郎の見た幻想ではなく、わたしたち観客の幻想を先取りしてスクリーンに映し出したものである、という見方だ。吐血ショットは二郎の見た白日夢、幻想であるという解釈自体、そう解釈する者の幻想、ただし論理性や実証性などから成る「説得力」という鎧を着せられた幻想(ファンタジー)ではないのか。幻想が悪いというのではない。おそらく、わたしたちの多くは幻想が与える快を求めて宮崎作品を見に行く。あの吐血のショットが客観的で「血生臭い」ものであったならば、場違いなものを見せられたという不快を感じていただろう。しかしそのとき、リアルな血に塗れた製作途中のキャンバスは、「宮崎ファンタジー」を映し出すスクリーンの暗喩であることをやめ、不快をつうじての快、すなわち崇高性へとわたしたちを導く矩形の穴となっていたかもしれない。『風立ちぬ』にはこうした崇高性のかけらもない。だが(またしても)それが悪いというのではない。カントはこういっていた。

戦争すら、秩序を保ちまた国民法の神聖を認めてこれを尊重しつつ遂行される限り、やはり何かしら崇高なものを具えているし、またそれと同時に、このような仕方で戦争を遂行する国民が、数多の危険にさらされながらもそれに屈することなく戦い抜くことができたならば、その国民の心意をそれだけますます崇高なものにするのである。(『判断力批判』〈上〉、岩波文庫、177頁)

零戦の設計者を主人公のモデルとしながら、ファンタジーが与える快にとどまり、(おそらく意図的に)崇高なものを拒否する『風立ちぬ』は、以上のような意味においてのみ(製作者たちの意図に反して)「反戦映画」といえるのである。こうしたアイロニーは見飽きたものではあるけれども。

フレデリック・ワイズマン特集@アテネ

アテネのワイズマン特集で『病院』と『基礎訓練』。上映後の佐々木敦氏との対談における写真家ホンマタカシ氏の話も刺激的だった。シャッターを切る特権的瞬間やそれが帰属する作家性を強調することを従来から疑問視してきたホンマ氏は、ワイズマンの作家性を強調することにも懐疑的で、ワイズマン自身、(フレームの取り方などに作者としての美学的感性が出てしまうことはあるにせよ)意識的にそうした作家性を希薄にしていると言う。しかしここには、よく知られた「構造主義のパラドクス」がある。作品を構造分析してその作家性を解体する論者の文章自体、作家性が高く構造分析できないものになっている場合があるという例のパラドクスだ。ワイズマン自身が、自らの作家性を希薄化していることが事実だとしても、その作品の特異性はどう説明できるのか。ワイズマンがしばしば語っている「ワイズマン・メソッド」に従ってキャメラをまわせばワイズマンと同様の作品が撮れるのか。私が刺激的だと感じたのは、「とにかくワイズマンの方法に則って作品を撮ってみたい」とホンマ氏が語っていたこと。失敗するかもしれないが、そうした「実験」によって初めて、ワイズマンの否定しようのない作家性の出所(編集かフレーミングか被写体との関係か、等々)やその内実がより明瞭に理解できるようになるかもしれない。クリエーターだから言えることかもしれないけれど、論文だって実験していないものはつまらない、というのは私見です。

フレデリック・ワイズマン特集@アテネ

アテネのワイズマン特集で『病院』と『基礎訓練』。上映後の佐々木敦氏との対談における写真家ホンマタカシ氏の話も刺激的だった。シャッターを切る特権的瞬間やそれが帰属する作家性を強調することを従来から疑問視してきたホンマ氏は、ワイズマンの作家性を強調することにも懐疑的で、ワイズマン自身、(フレームの取り方などに作者としての美学的感性が出てしまうことはあるにせよ)意識的にそうした作家性を希薄にしていると言う。しかしここには、よく知られた「構造主義のパラドクス」がある。作品を構造分析してその作家性を解体する論者の文章自体、作家性が高く構造分析できないものになっている場合があるという例のパラドクスだ。ワイズマン自身が、自らの作家性を希薄化していることが事実だとしても、その作品の特異性はどう説明できるのか。ワイズマンがしばしば語っている「ワイズマン・メソッド」に従ってキャメラをまわせばワイズマンと同様の作品が撮れるのか。私が刺激的だと感じたのは、「とにかくワイズマンの方法に則って作品を撮ってみたい」とホンマ氏が語っていたこと。失敗するかもしれないが、そうした「実験」によって初めて、ワイズマンの否定しようのない作家性の出所(編集かフレーミングか被写体との関係か、等々)やその内実がより明瞭に理解できるようになるかもしれない。クリエーターだから言えることかもしれないけれど、論文だって実験していないものはつまらない、というのは私見です。