モヒートばか 


昨日は、『カイエ・デュ・シネマ』誌出身のパスカル・ボニゼール監督作品ということで気になっていた『華麗なるアリバイ』を観るために炎暑のなかを渋谷へ。にしても暑い。Bunkamuraル・シネマにたどり着くまで干からびてしまいそうだったので、とりあえず涼をとるため Book1st へもぐる。『図書新聞』最新号の1面にペドロ・コスタのインタヴューが載っている。これは買いだ。裏返してみると、なんとジジェク大義を忘れるな』に対する長文の書評が。松本潤一郎氏による「ららら鉄人の子(「鉄人」に「スターリン」のルビ)」と題されたこの書評、ある意味『大義・・・』よりもラディカルに思えるのは、それが「日本の言説空間」にじかに向けられているからだ。自らを主張する人民とは異なり、自らを廃棄するプロレタリアートだけが国家を廃棄できる、「悪鬼の面」をかぶりそう主張するジジェクは、「悪人であろうとする渾身の努力」をしていたブレヒト、つまり己から「遠ざかる=異化すること distanciation」を説き実践するブレヒトを反復していると松本氏は言う。そう受け取ってもらえて訳者の一人としてうれしい。と同時に、訳すだけではなくて、自分でもジジェクにきちんと応答しないといけないよな、と身を引き締める。しかし灼熱の文化村通りに出ると身はゆるみ溶け始める。友人と合流して「ドゥマゴ」でランチ。周囲のおばさまたちの冷たい視線を感じつつ、ビールとワインでがんがん水分補給を行う。「テメェナメテンノカバカヤロコノヤロ」と内心はすっかり『アウトレイジ』化したわれわれは、これから観るのがフランス映画だったことを思い出し、「ジャック・ロジエのヴァカンス」風に無意味に「オーールゥゥエット!」と口にしながら時間ぎりぎりに映画館にすべり込む。
 映画は女優陣がみんなよく(特に、目がどことなくシャーロット・ランプリング似のセリーヌ・サレットの、幸せ薄そうな影の薄さには感じ入った)、エンディングのヒッチコック的展開も折り目正しく、ついでにゾンビ(に見えたよ)も出てくるので満足でした。サプライズだったのは、『二十四時間の情事』(アラン・レネ、1959)の主演女優エマニュエル・リヴァ先生が端役で出演していたこと。リヴァ先生といえば、先生が広島ロケ中に撮った写真がメインとなっている本、『HIROSHIMA 1958』(インスクリプト、2008)が自室の書棚の目立つところに置いてある。フランス人女優のキャメラを通した眼差しと、戦後復興期の広島の人々(特に子供たち)の眼差しとの交錯を伝える写真の数々は、過ぎ去った現在としての「過去」ではなく、現在を過ぎ去らせる根拠としての「純粋過去」、すなわち実在する記憶を物質化している。  
 『華麗なるアリバイ』で不必要にたくさんモヒートが出てくるシーンがあって、これに反応しないわけがなく、映画館を出て気がつくとモヒートのうまい松濤のパブに。ふつうのモヒート、スパイシー・モヒート、なんとかモヒート、とにかくモヒート、モヒートでヒートアップしすぎたので、パブから近いバブリーな蕎麦屋の暖簾をくぐってせいろでクールダウンするも、好きな田酒があったのですいすい飲んでいると、どこかでスイッチが入って夏はやっぱモヒートでしょ、とわけのわからないモヒート・モードが再起動して今度は道玄坂エスニック・レストランでモヒート、角玉梅酒ロックもいいけどやっぱりモヒートお願いします、そう、モヒートおかわりで、モヒートおいしいねぇ、モヒートってらぶりーだよね、モヒートさんてクールですてきだなぁ・・・。
今日の昼頃目が覚めて歯を磨いたとき、ミント味の「練り歯磨き」で気持ち悪くなりました。

HIROSHIMA 1958

HIROSHIMA 1958

二十四時間の情事 [DVD]

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こちらで、『華麗なるアリバイ』に対する「新聞の映画評」が評されている。「日経」と「読売」の記者が叩かれているのは当然だと思う。