絶望が足りない@豊橋 


24日(土)、同人誌『レイモンド・ウィリアムズ研究』第2号の企画で、関曠野さんへのインタヴューを行う@ホテル シーパレスリゾート豊橋。(インタヴューについては id:sintak さんと id:melaniek さんをご覧ください。右の写真は、インタヴューのあとホテルの前庭から見た豊橋の空。) 
いや、率直に言って、業績づくりのためでもビジネスのためでも知ったかぶりをするためでもなく、強いられて思考する人の姿、相貌、言語行為に触れて感銘を受ける。私としては、潜在的失業者になっている人生のこの時期に、在野で言葉を紡いでこられた関さんにお会いできたことの意義は大きい。関さんと、関さんを紹介してくれたKせんせ・・・もとへ、Kさんを始めとする同人のみなさんに感謝します(私は企画に便乗して付いていっただけなので)。
インタヴューのあとの食事会のとき、関さんはしみじみと「西洋思想には本当に幻滅した」とおっしゃっていたが、そう言いながらも、C.H.ダクラスを「引用」し(ベーシックインカムを柱とする)社会クレジット運動の可能性を探りつつ、ルソー論(社会クレジット運動実現のための政治論になるのでしょうか)の完成を目指す関さんの粘り強い姿勢は、『プラトンと資本主義』から一貫している。希望は、見出されるのではなくすでに与えられているのだ。そしてそれは、語られるものとしてのみならず、実現されるべきものとしてある・・・。
というようなことを、野村修『ベンヤミンの生涯』に寄せられた関さんの解説を読んであらためて思った。この解説、短いものだがじつに素晴らしい。ここに全文を引用したいくらいなのだけれど、ごく一部だけ。  

持続する現在は、歴史的回想によって中断され破壊される。回想は未完結の幸福を完結させ、完結した受苦を未完結にすることができる。回想としての歴史は現在と過去の対話であり、未知の、あるいは忘却された可能性としての過去が若返って現在に話しかけてくることである。しかも回想は何よりも他者との共同作業である。というのも回想は、過去に他者が書いた文章を引用することであり、そして引用によって、過去の相続者として振舞う現在の連続性と全体的連関が破壊されることになる。「引用文は語を名によってよびあげ、この語をその関連からひき離し破壊する。しかし、まさにこのことによって、引用文はその破壊した語をその根源へと呼び帰してもいるのだ」(「カール・クラウス」)。引用された過去の他者の言葉は、現在の持続に介入してそれを中断させ、根源への回帰が現在に対する神的な裁きとしての批評を可能にする。批評とは、この破壊作業によって根源へと立ち帰り、危機としての分かれ目、裂け目、裁きの瞬間としての今を現出させる行為以外のなにものでもない(『ベンヤミンの生涯』解説、327-28頁)。

ベンヤミンカール・クラウスを評した言葉を、関さんは次の引用文でベンヤミンに贈りかえしているが、私は、その関さんの言葉を関さんご自身に贈りかえしたい気がしている。 

彼[ベンヤミン]は伝統のラディカルな可能性を危機の中で再生させたという意味で、革命的な人間だった。だから我々は、彼がカール・クラウスを評した言葉をそのまま彼に贈りかえすことにしよう。「絶望している人間にしてはじめて、引用文のなかに、保守する力ではなく浄化する力を、連関をうちやぶる力と破壊する力を発見したのだ。これこそ、ものによってはこの時代をこえて生きつづけることができるという希望を内包する唯一の力なのだ――なぜならば、それらはこの時代のそとに追い払われたからこそ次代に生きのびるのである」(「カール・クラウス」)(『ベンヤミンの生涯』解説、330-31頁)。

ベンヤミンの生涯 (平凡社ライブラリー)

ベンヤミンの生涯 (平凡社ライブラリー)