関曠野『ハムレットの方へ』の方へ 

メモです。  

未来は過去のパロディとしてのみあり、新世界が無から出現することではない。変革とは過去からの脱出ではなく、過去がそれと知らず秘めていた喜ばしい可能性を開花させることにほかならない。(中略)体制の真の変革は、同時に各人の生き方の変容と言語の更新を伴うものでなければならない。言い換えれば、我々自身が再び成長してゆく過程としてのみ体制の変革はありうる。体制の変革は徳の練習として遂行され、習慣の不断の浄化と変更としてのみ実現される。未来を夢想することでなく、日々に悪しき習慣を捨て良き習慣を忍耐強く強力なものに育て上げる努力だけが、体制を決定的に変革する。(中略)学び成長する若者ハムレットが我々に教えるのは、この変革者の論理と倫理である(関曠野ハムレットの方へ』249-50頁)。

上の引用のほかにも、たとえば「人間の成長を測る尺度たりうるものは、個人が体験する歓びの深さと確かさ以外にない。」というような言葉に触れるたびに、関氏自身は(少なくともこの本では)言及していないスピノザニーチェ、そしてドゥルーズを想起してしまう。こうして抜書きしたくなる文章にいたるところで出会う『ハムレットの方へ』、どこかの出版社で文庫化して再発してくれないものだろうか(ちくま学芸文庫とか)。特に大学の新入生に読んでほしいので。ところで、次のように記すジジェクは、『ハムレットの方へ』を読んでいたに違いない。

ハイデガーが将来それ自体の特徴を、既在として、より正確に言えば既在として存在しているものとして説明するとき、将来それ自体を過去に位置づけているわけである。(中略)過去それ自体は、たんに「存在していたもの」であるわけではなく、隠された、実現されていない潜在力を含み、本来的な将来とは、この過去の反復/回復なのであって、かつて存在していたものとしての過去の反復/回復ではなく、過去それ自体が現実において裏切り抑圧して実現できなかったような事柄の反復/回復なのだ。今日「レーニンを反復する」と言うのはこの意味においてである(ジジェク大義を忘れるな』217-18頁)。

ハムレットの方へ―言葉・存在・権力についての省察

ハムレットの方へ―言葉・存在・権力についての省察