かなりナイーヴですが 

学会員以外は(もしかすると学会員すら?)読まないだろう或る学会誌に、↓の本の書評を書いた。この本は、ヴィクトリア時代の写真と文学をめぐる言説、両者の絡み合いを精査することによって、文学上のリアリズムという概念を定義し直そうとするもので、特にオスカー・ワイルド論である第4章などいろいろと勉強にはなるのだが、読んでいて、そして書評を書いていてとても虚しくなってくる。それで、どうにも怒慢が、いや我慢がならなくなって、書評の最後に以下のナイーヴな文章を書き加えてしまった。書評のごく一部なのでここにアップしても問題はないだろう。 

「しかし、私たちはそれで満足してしまってよいのだろうか。こうして知の貯蔵庫に新たな知を一つ加えることだけが、ワイルド批評の目的ではないように思う。ソヴィエト共産党支配下にあった東欧諸国の反体制グループが、「社会主義下の人間の魂」を密かに輪読していたときのような切実さで、あるいは、クィア批評の隆盛時、同性愛者たちが自らを解放するためにワイルドのテクストを論じていたときのような陽気な真剣さで、ワイルドの言葉を現在に生かすことはもうできないのだろうか。ノヴァクの著書には、残念ながらそうした切実さ、真剣さはうかがえない。だが、そうした切実さの欠如を、現在のワイルド批評の停滞を示す徴候だと評すること自体、知的な怠慢、言い逃れにすぎないだろう。ワイルドの言葉は、「悲しみ」を「喜び」に変えるように、絶えず私たちを促しているのだから。」

ナイーヴなだけでなくセンチメンタルな文章になってしまっている。でももう疲れて手直しする気力もない。だが、これから『次郎長三国志・第九部、荒神山』(マキノ雅弘、1954)を見たいという衝迫は抑えきれない。寝るのはそれからだ。