エクスクレメンティス・アルテリウス

不貞腐れていないで、少しは仕事を進めないといけないということで、秋のシンポジウムに備えてベンヤミンゲーテの『親和力』」(『ベンヤミン・コレクションI』所収)を読んでいたら、カント『道徳の形而上学』の「婚姻」をめぐる例の一節が引用されているのを見て大笑い。カントのあの顔を思い浮かべると余計に笑える。

性の共同性(commercium sexuale〔性の交わり〕)とは、人間が他者の性器および性能力を利用する、その相互利用を謂い、それは自然な利用(これによって同類をつくることができる)または不自然な利用であって、後者の場合は同性の人物、もしくは人間種族とは異なる種族の動物に対して行われる(『ベンヤミン・コレクションI』、47頁)。

今日いう狭義の「哲学」のみならず、あらゆる事象に対して知識欲旺盛だったというカントのことだから、「不自然な利用」についても密かに研究していたのではないか、などと晩夏の夕暮れどきに妄想する。

哲学者によるエロい(というか、性に関する即物的な)記述といえば、有名なのはスピノザ『エチカ』における嫉妬をめぐるものだろう。自分の愛する女が他の男と交わっているところを想像する男は・・・という一節だ。私がこの一節を知ったのは、大昔に『エチカ』(岩波文庫版)を読んだときではなくて、その後しばらくして読んだ花田清輝『復興期の精神』によってである。いま手元にある『復興期の精神』(講談社学術文庫、昭和61年)にはこう紹介されている。

スピノザが『倫理学』のなかで、たとえば嫉妬について、「愛する女が他人に身をまかせることを表現することは、自分の欲望がさまたげられるから悲しむだけでなく、また愛するものの表象像を、他人の生殖器および放射精液と結合せざるを得ないところから、ついに愛するものを嫌うにいたるであろう」と語るとき、いかにも平凡ではあるが、そこにはどこまでも即物的な、遠慮も会釈もない観察がある(188頁)。

これを読んだとき、えっ、『エチカ』にこんなに生々しいところあったっけ?花田のネタじゃないの、と訝しく思った。当時の私が(今でも、だろうか)こんな楽しい一節を覚えていないわけがないのだ。その後も、丹生谷貴志やその他の人たちがこの一節に言及しているのを目にするたびに、同じ疑問が頭をよぎったが、特に調べることもなく歳月が過ぎてしまった。ベンヤミンが引用する上のカントの一節に触発されて、長年放置していた疑問について(ほんのちょっとだけ)調べてみようと思った次第。で、畠中尚志訳(岩波文庫、1975年)では、例のくだりはこうなっている。

すなわち愛する女が他人に身を委せることを表象する人は、自分の衝動が阻害されるゆえに悲しむばかりでなく、また愛するものの表象像を他人の恥部および分泌物と結合せざるを得ないがゆえに愛するものを厭うであろう(上巻206頁)。

花田による訳文が、ラテン語の原書からのものなのか英独仏語訳のいずれかの重訳なのか、それとも私の知らない邦訳によるものなのか不明だが、花田の「他人の生殖器および放射精液」と比べると、畠中訳の「他人の恥部および分泌物」はかなり婉曲的になっている。しかし「恥部」はいいとしても、「分泌物」って・・・。*1だいたいあれって分泌物なのか?これでは当時の私が気に留めなかったのも無理はない。ちなみに工藤喜作と斎藤博による訳(中央公論社、『世界の名著』)でも、当該箇所は「他人の恥部や分泌物」となっている(219頁)。この箇所の英訳(Ehics. Trans. James Gutmann. New York:Hafner Press, 1949.)は次のとおり。

The man who imagines that the woman he loves prostitutes herself to another is not merely troubled because his appetite is restrained, but he turns away from her because he is obliged to connect the image of a beloved object with the privy parts and with what is excremental in another man . . . (154).

“the privy parts“ と “what is excremental“ か。羅仏対訳版(Ēthique. Trans. Bernard Pautrat. Paris:Seuil, 1988.)でこれら二つの句に該当する部分を見ると、まず仏訳ではそれぞれ “parties honteuses”、”excréments” となっていて、ラテン語の原典では(がんばって羅英辞典で調べてみると)”pudendis”(恥ずかしいもの)と ”excrementis alterius” となっている。こうして見てくると、「恥部」と訳すのはやはり許容範囲内だと思われるが、問題はオリジナルの ”excrementis” の訳語だろう。英訳と仏訳はそれぞれ原語と同根の語を使っているので問題ないのだろうが、日本語でこれをどうするかだ。「排泄物」なんて訳している邦訳版があるんじゃないかぁ、と意地悪く調べてみると、ありました。次の引用は『世界の大思想9 スピノザ』(河出書房新社、昭和41年)の高桑純夫訳による当該箇所。

なぜかというに、自分の愛する或る婦人が、他人に身を委せていると考えるひとは、彼自身の衝動が阻止されるという理由だけで悲しみに陥るのではなく、むしろ、愛するひとの像と、第三者の恥部や排泄物とを結びつけて考えざるをえないので、愛するひとが憎らしくなるにちがいないということもあるからである(129頁)。

あれは「排泄物」ではないとはいいきれないが、「愛するひとの像と、第三者の恥部や排泄物とを結びつけて考え」嫉妬に狂っているなんて、或る特殊な嗜好に傾いている男をイメージしてしまい、これも笑える。面白いので、他の邦訳を見てみると、小尾範治訳(岩波文庫昭和2年)ではこう訳されている。 

即ち彼の愛する女が他人に身を委せることを表象する人は、彼自身の欲求が妨げられる故に不快を感ずるのみならず、愛するものの表象像を他人の陰部及び放射物と結合せざるを得ない故に、愛するものを嫌ふであらう(151頁)。

今度は「放射物」か。いいセンいっているが、チェルノブイリ近辺で不倫に励むカップル、という不謹慎な空想に導きかねない訳文である。こうして『エチカ』の当該箇所だけいろいろな訳文で読んでいると、スピノザの文なのかラブレーの文なのかわからなくなってくるが、やはり最初の花田清輝訳(と仮に呼んでおく)が総合的に見てもっとも適切なものではないかと思う。なぜ花田は”excrementis”を「放射精液」と訳せたのか。『エチカ』全体の訳ではなく、そのごく一部を訳すことに集中できたからなのか、スピノザの一文を自分の批評文の文脈に合わせる必要があったからなのか、花田が学者ではなく批評家だったからなのか、たんにセンスが良かったからなのか、いずれにしても、自分が仕事をするときに頭の隅に置いておきたい挿話ではある。

これを書いていて気づいたのですが、今日は、このはてなブログを開設して一周年記念の日でした。しかしブログの誕生日のエントリーの話題が ”excrementis” とは・・・。

*1:もしこの一節の主体が男ではなく女であれば、「分泌物」という訳語で問題ないだろう、ってまた余計なことを。