絲山秋子『袋小路の男』 

片思いはいつ終わるものなのだろうか。片思いがいつまでも終わらないとすれば、その原因は、「思う側」と「思われる側」が作為的に結ぶ微妙な関係にあるのではなく、両者の意思とは無関係に形成され、いつのまにかそこを離れては生きていけなくなっている場所、たとえば水辺の木陰のような場所に二人が囚われているためではないだろうか。絲山秋子『袋小路の男』に収められた三つの短編のうちの二つ、「袋小路の男」と「小田切孝の言い分」は、ヒロイン大谷日向子の、高校の先輩小田切孝に対する十年以上にわたる片思いを、一つは一人称で、もう一つは三人称で物語る。文庫本の解説で松浦寿輝が、この短編集の鍵語として「距離の倫理」といっている。なるほどそうには違いないが、「隔たり」という空間的な位相からだけでは、「隔たり」が十年以上(たぶんこの先もずっと)続く、この短編集を流れる時間の独特の感触を捉えきれないように思う。ただ、時間の位相から「隔たり」を見るといっても、日向子は何かの到来を(たとえば片思いの成就を、あるいは二人の死を)待っているというのではない。日向子はあみんではない。にもかかわらず、日向子は「待っている」。というのも、「水辺の木陰」では、釣り針に魚が食いついたり、夕立がやんだり、濡れたシャツが乾いたりするのを待つことが生きることだからだ。だから日向子は、彼女の部屋で酔いつぶれて眠ってしまった小田切の傍らでこう呟く。「私は文庫本を片手に番茶を飲みながら、あなたの目がさめるのを待っている。襲ったりはしない。せまったりはしない。あなたを袋小路の奥に追いつめるようなことは一切しない。」二人のあいだの距離は時間化され、日向子はただ「静かな気持ち」で、「待つ」時間を生きている。 

最後の短編「アーリオ オーリオ」では、「距離の時間化」は「三日光年」という言葉ではっきりと主題として示される。天文学に詳しい四十がらみの男とその中学三年の姪の、反時代的な手紙のやりとりによる交流は、最後の返信を男が投函しないことによって絶たれるが、この切断によって姪の美由は、「アーリオ オーリオ」という「新しい星」を瞼の裏に見ながら大人の生を生きることになるのだろう。

最後に。ローカルなお知らせですみませんが、そしてしつこいようですが、「飯田橋ギンレイホール」で万田邦敏『接吻』が上映されています。8月8日(金)までです。詳しくはこちらをどうぞ。

袋小路の男 (講談社文庫)

袋小路の男 (講談社文庫)