明るい敗北 

訳者の長原氏の編集による日本語オリジナル版、スラヴォイ・ジジェクロベスピエール毛沢東 革命とテロル』(長原豊松本潤一郎訳)を読む。特に第2章「バディウ―世界の論理」に刺激を受ける、というか理論的かつ私的に励まされた。この章でジジェクは、「静観主義」とも見えかねないバディウの傾向を危惧するエイドリアン・ジョンストン(Adrian Johnston)を引きながら、ジョンストンの行論それ自体が「行動的な静観主義」に陥ってしまう危険を嗅ぎ取っている。こういうときのジジェクは恐ろしいほど鋭いし、その言葉の裏にある彼の過酷な「経験」の熱が伝わってくる気がする。 

ジョンストンは、本物の変化を閃光のように誘発する出来事の到来を待ち侘びるという静観主義、そうした「静観主義的な辛抱強さ」を捨て、国家主義的なシステムのアキレス腱を世俗的な文脈の中に見抜くこと、そうした凝視・観察とマイナーな実践の積み重ねがいずれはメジャーな「出来事」をもたらすはずである、その可能性に「辛抱強い望み」を抱き続けねばならないと言う。こうした戦略の限界をジジェクは指摘する。つまり、小さな介入に従事し続けることでいつの日にかラディカルな変革に辿り着けるだろうという秘められた望みは、〈大行動〉を永遠に繰り延べてしまう危険がある。つまりそれは、「行動的な静観主義」といったものに帰着してしまう可能性が高いというのだ。来るべき時のための我慢強い準備(マイナーな実践)は必要だが、そうした(予測不可能な)時を掴まえる術もまた知っておかねばならない。ではその術を伝えるものはなにか。過去の「未熟な」試み、失敗、敗北、である。

ただ俟つだけでは、決してその瞬間は訪れない。(中略)宣言されたその達成目標の完遂の失敗にこそ「正しい―当を得た」瞬間のための(主体的)条件を創造するという、「未熟な」試みから始めねばならない。(中略)それはまた、最後の闘いに勝利を収めるために敗北するという忍耐でもある。(中略)フランス革命を反復する権限に真に相応しい出来事は、トゥーサン=ルーベルテュールに率いられたハイチ革命だった。それは明らかに「時代を先取り」し、「未熟」だった。それはまた、それ自体としては失敗に終わったが、まさにそれがゆえにこそ、フランス革命そのものに較べても、一つの〈出来事〉以上の何事かだった。これら過去における敗北がユートピアを待望する原動力を蓄えるのである(98−99頁)。

未来への変革志向が、過去における解放的試みの失敗のために実現されないまま、私たちに取り憑いて離れないのではないか、解放の試みの失敗そのものが、未来への変革志向を密かに抱き続ける人々にとっての予兆なのだ、そうジジェクは言う。 

だからスピッツの「さわって・変わって」の一節「3連敗のち3連勝して街が光る」は、「大義」を捨てない人々にとっては、「3連敗のち3連敗して街が光る」でなければならない、と思う。

ロベスピエール/毛沢東―革命とテロル (河出文庫)

ロベスピエール/毛沢東―革命とテロル (河出文庫)