失業とは不払い労働で、労働とは有給の失業だ。 

真実は、真なるものを考えるように強制するものとの偶然の出会いから見出されなければなんでもない、みたいなことをドゥルーズが書いていて、ああこのフランスの哲学者の中にはやはりモラリストの伝統が息づいているんだなぁと思いながらそれを読んだのは学生時代だけれど、その時の印象が強かったせいか今でもときどき思い出す。私は鈍いタイプなので、日々の暮らしで感じた「引っかかり」がなければ何も考えられない。だから「引っかかり」のないところで無理に「仕事」をしようとすると、増村保造『大悪党』(1968年)で田宮二郎演じる悪徳弁護士が握り潰していたはずの虚無が、私のポケットの中の握り拳の中で息を吹き返すことになってしまう。こういう場合に私は、自らの鈍さに居直って、「なんでもない」真実を捏造しない非生産的時間を生産過程において生きるほかはない。すると、そうした活動的な無為自体が「引っかかり」となって、私の思考をさらなる無為の海に「強制的に」漂流させることになる。これは、そんな漂流の中で読んだ一冊。

マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために

マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために

この本が書店の棚に並んだ4年前、そのタイトルだけ見て、ネグリ&ハート『帝国』の解説本の類だと思い込んで、手にとってみることすらしなかった。読んでみておのが不明を恥じる。パオロ・ヴィルノは、言語活動の外部にある「生きた身体」がポストフォーディズム的労働の中に巻き込まれていること、そうした「生政治」を指摘する『帝国』の著者たちを、心身二元論に傾いているといって明快に批判している。さらには、ドゥルーズに大きな影響を与えたというジルベール・シモンドン(Gilbert Simondon)を援用しつつ、前個体的なものと個体化されたものとの絡み合い(そしてこの両者を媒介する情動の震え)として主体を捉えることにより、主体としてのマルチチュード存在論的-政治的概念として鍛え上げてもいる。ヴィルノは、マルクスのいう「社会的個人」の総体、『グルントリッセ』で言及される「一般的知性」を持つからこそ「社会的」と呼ばれる「個人」の総体を、マルチチュードと呼ぶ。それは、国家を支え国家の単一性に回収される「人民」ではもはやなく、権力の奪取を目指さない、むしろ権力から身を守る、個体化された特異性としての、新たな政治的主体としての「多数的なもの」であり、非代議的民主主義と呼びうるものの可能性に基盤を与えるものである。他方でヴィルノは、マルチチュードが両義的な存在様態であることを繰り返し強調している。マルチチュードは、「ポストモダンファシズム」の基体ともなりうるのだ。ヴィルノのこうした慎重さは、『マルチチュードの文法』を真に「実用的な」本にしていると思う。 

ポストフォーディズム的環境において労働するマルチチュードにとって、労働時間と非労働時間は明確には区別されない。読書や思索といった「精神の生活」(ハンナ・アレント)から家族・友人とのコミュニケーションといったことまで、生産の時空間の中に組み込まれてしまっている。ネットの海に浮かぶ小島で日記を書くことすら、複雑な回路を経て生産過程に還元される。いまや労働力が参加する生産的協働は、非労働(職場の外で培われた能力や経験)を含むことなしに成立しない。つまり、不払いの生活がなければ生産過程は有効に稼動しない。「なされていること」だけに関していえば、就労と失業とのあいだには実体的な違いはないということだ(報酬のあるなしという大きな違いはもちろんある)。だからこそ、労働組合の活動はポストフォーディズム的資本主義の「サプリメント」になってしまう。 

さらに興味深いのは、こうした認識から、現代の資本による剰余価値の生産が従来とは別のやり方で説明されるところだ。ヴィルノはまず、マルクスによる「労働時間」と「生産時間」の区別を導入する。たとえば稲作において、種を蒔き田植えを行い農薬を撒き稲を刈りとるという一連の作業(労働時間)があるが、収穫までにはそうした時間以外に、稲の成長に必要な長い時間(生産時間)が必要だ。ポストフォーディズムにおいては、生産時間は非労働時間(無報酬の時間)を含み込んでいる。(報酬の支払われる)労働時間は、生産時間の一部であるにすぎないのだ。

マルクスは、産業資本が生産する剰余価値は、剰余労働(労働時間の総体と必要労働との差異)から生じるとした。*1 しかし、ポストフォーディズム的資本は、(無報酬の)非労働時間を含む生産時間と、(報酬が払われる)労働時間との差異から剰余価値を生み出す。とすると、私たちは、プライヴェートな時間、余暇の時間、お楽しみの時間の隅々まで搾取されていることになる。そんな馬鹿な、と薄笑いを浮かべるのでもなく、じゃあどうすればいいんだよ、とうろたえもせず、これはヴィルノのいう「反革命*2、私たちの望んだ「反革命」による「見事な」成果であるという苦い認識を噛み締めることから始めたい。

Radical Thought in Italy: A Potential Politics (Theory Out of Bounds)

Radical Thought in Italy: A Potential Politics (Theory Out of Bounds)

*1:柄谷行人が『マルクスその可能性の中心』において、産業資本が生産する剰余価値は、イノヴェーションによって生じる二つの価格体系の差異、つまり事後的にしか見出せない時間的な差異に由来すると指摘したのはやはり画期的なことだったと思う。

*2:Paolo Virno,"Do You Remember Couterrevolution?", Radical Thought in Italy 「君は反革命をおぼえているか?」酒井隆史訳、『現代思想』1997年5月号.