2019年新作映画ベスト9

2019年新作映画ベスト9(ほぼ見た順)。

『運び屋』(クリント・イーストウッド
『月夜釜合戦』(佐藤零郎) 
『イメージの本』(ジャン=リュック・ゴダール
『救いの接吻』(フィリップ・ガレル
『7月の物語』(ギョーム・ブラック)
嵐電』(鈴木卓爾) 
『さらば愛しきアウトロー』(デヴィッド・ロウリー) 
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クェンティン・タランティーノ
『ヴィタリナ』(ペドロ・コスタ) 

『救いの接吻』は旧作だが、日本初公開だったので入れた。同様に、『月夜釜合戦』も今年の作品ではないが東京では初公開だったので。 
旧作を挙げたらきりがないが、3月に下高井戸シネマでやっと見ることのできた東北記録映画三部作『なみのおと』、『なみのこえ 気仙沼』、『なみのこえ 新地町』、『うたうひと』(酒井耕&濱口竜介)はとりわけ圧倒的だった。3月11日前後に再上映されるかもしれないので、未見の方はぜひ。

2019.12.14日本ワイルド協会大会シンポジウム@日本女子大学

【シンポジウム】ロマン主義の遺産とオスカー・ワイルド

ポール・ド・マンは、『ロマン主義と現代批評』やその他の著作で次のような意味のことを述べている。ルソー、ワーズワス、ヘルダーリンらは、ロマン派一般だけではなく現代の批評家をも規定しているロマン主義という制度への批判者として定位される、と。つまり、ロマン主義文学一般は、その始まりにおいてなされた「真正な」批判を忘却することによって存在しているというわけである。そうだとすれば、「ロマン主義の遺産」の相続は二重の意味を帯びることになる。制度を(意識的または無意識的に)受け入れるという意味と、忘れ去られた原初の批判を思い出すという意味との二重性である。本シンポジウムでは、内面・魂と外面・身体との調和という制度的ロマン主義の主題にとらわれ続けたかに見えるワイルドが、「ロマン主義の遺産」を二重の意味でいかに相続した/相続しなかったのかを、登壇者それぞれの視点から探ることをつうじて、ロマン主義がはらむ近代の諸問題を再検討したい。  


パラドクスとロマンティック・アイロニー
鈴木英明

周知のように、ワイルドのテクストはパラドクスに満ちている。『ドリアン・グレイの肖像』においてヘンリー卿が説く新ヘドニズム(「感覚によって魂を癒し、魂によって感覚を癒す」)や、『獄中記』において語られた芸術家の理想(外面が内面を表現し魂が身体と統一される状態)などはその典型だろう。しかし、こうした内面と外面の統一、いわばロマン主義的全体化は、ワイルドのテクストにおいて最終的に成就することはない。つまり真のパラドクスは、内面/外面ではなく、分裂/統一というパラドクスなのである。このパラドクスは、主体化という水準においては、永遠に繰り返される自己の二重化(自己が自己自身に一致しないこと)として現象する。これが想起させるのは、ドイツのロマン派フリードリヒ・シュレーゲルの言う、「自己創造と自己破壊の絶え間ない交替」つまり「ロマン主義的イロニー」である。またシュレーゲルによれば、このイロニーにおいては「すべてが戯れであると同時に真面目である」。本発表では、こうしたイロニーという観点から、ワイルドとロマン主義との関係を考察する。 


オスカー・ワイルドと批評の習慣
騎馬秀太

以前に比べて文学・批評理論が読まれなくなったと言われるようになって久しいが、現代は同時に批評あるいは批判に満ち溢れた時代でもある。そんな逆説的な状況にあって、批評史において常に参照先とされてきたロマン主義における「批評・批判」から現代の我々は何を引き継ぎ、あるいは引き継ぎ損ねているのか。本発表はイヴ・セジウィックやリタ・フェルスキらが呈示したポスト・クリティークの議論を参照しつつ、ロマン主義的な批評実践が抱え込んだ「苦境」の反復をオスカー・ワイルドの「芸術家としての批評家」のうちに見出すことを通して、現代の我々が図らずも体得している「批評の習慣」の問題点と可能性を明らかにしたい。ポリティカル・コレクトネスなど、批判そのものが機械的な習慣、紋切り型として機能している現状において、いかに批評を実践していくべきか。ロマン主義の遺産のうちに、批評を活性化させる新たな習慣の可能性を模索したい。


反近代としての近代主義ーーオスカー・ワイルドにおける表象をめぐる問題系
遠藤不比人

吉田健一の至言「近代はワイルドから始る」は、この芸術家=批評家が反近代主義者としての近代主義者(modernist)であったことを喝破するが、本発表はこの洞察を近代芸術と「表象(representation)」という点から再考する。特にワイルドの批評言語は、最終形態として印象派として現象した近代芸術における表象主義を批判し、それに代わって「表出(expression)」を特権化している。後者は、芸術(言語)が別の何かを代理=表象するのではなく、それ自体が或る何か(例えば不可視の「魂」)を内包する(宿す)形で体現するという含意として解釈できる。この芸術論は、20世紀のアヴァンギャルド芸術(その先駆はポスト印象主義)に結実するものだが、それは例えば、ポール・ド・マンがいう「ポスト・ロマン主義」たる近代表象の根源的な批判ともなっている。その政治的かつ歴史的含意について論じたい。 


オスカー・ワイルド、あるいはポストロマン主義の逆説
中山徹

ロマン派以来、詩はみずからを正当化する必要性に直面してきたが、この使命はますます困難になっている――この「ポストロマン主義の苦境」(ド・マン)は、ワイルドにおいて反ロマン主義的なロマン主義とでも言うべき逆説を生んでいるように思われる。彼は、詩を含む芸術は「無用である」と規定することによって逆説的に芸術を正当化したのではなかったか。また彼の美学は、ロマン派一般を積極的に評価しないにもかかわらず、表面的にはロマン派と同じく古代ギリシアに範を仰いでみせる。そして彼がこの一見して反ロマン派的な芸術論に込めた内容(芸術としての批評、自己意識、反自然)と、それを語る際に採用した形式(議論の絶えざる偶発的な中断を誘発する対話体)は、ロマン派の反省性や反自然的な想像力に焦点をあてたド・マンのロマン主義論や、その特権的な参照項であるF・シュレーゲルの文学論(ロマン主義文学の本質としての機知、永遠のパラバシスとしてのアイロニー)をふまえて考察されてしかるべき特性をもっている。

2018年映画ベスト10
毎年のことながらろくに見ていないので、新作と旧作が入り混じったベスト10。ただし初見のものにかぎった(ほぼ見た順)。

『季節の記憶(仮)』(只石博紀)
霊的ボリシェヴィキ』(高橋洋) 
『それから』(ホン・サンス) 
『ロストシティ/失われた黄金都市』(ジェームズ・グレイ) 
ゾンからのメッセージ』(鈴木卓爾
『ドゥニャ』(ジョスリーン・サアブ)
『自由行』(イン・リャン)
『アッシュ・イズ・ピュアレスト・ホワイト』(ジャ・ジャンクー
『嘘をつく男』(アラン・ロブ=グリエ)
風の向こうへ』(オーソン・ウェルズ) 

ゴダールの新作は見ていない。ガレル、濱口、三宅の新作は次点。『親密さ』や『ハッピーアワー』を見ている人なら、濱口の新作をよいとは思えないはず。

中山徹『ジョイスの反美学―モダニズム批判としての「ユリシーズ 」』

 中山さんの待望の著書が彩流社から出版されます。詳細はこちら。書店に並ぶのは2月25日とのこと。故あって原稿を読ませてもらいましたが、第一章がレイモンド・ウィリアムズ『文化と社会』の引用から始まっていてちょっとびっくり。著者の属する研究環境からいい刺激を受けているようですね。簡単に紹介するとこんな感じです。 

 本書は、ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』の読解を通じて、西洋のモダニズム芸術に特徴的な「政治と美学との結託」を歴史的かつ理論的に吟味するものである。筆者は、カントにまで遡行することによってモダニズム美学の特質を理論的に明らかにし、その美学がはらむ政治性を歴史上の具体例に即して考察しつつ、こうした美学=政治に『ユリシーズ』がいかに抗うものであるかを、ラカン精神分析の知見を導入しながら明解に示している。本書の最大の価値は、20世紀初頭のモダニズムにおける「政治と美学の結託」を、文化の美学化とモダニティの美学化という二つの視点から整理し、こうした美学化とそれに対する批判を、「性化の式 formula of sexuation」という理論的枠組みのポテンシャルを最大限に活かしつつ論じきったところにある。性化の式とは、フランスの精神分析ジャック・ラカンが提示した図式であり、言葉を話す人間にあって特徴的な男女の性差(この性差は、ジェンダーあるいは生物学的な性差とは異なる)を、述語論理学や集合論の概念を応用しつつ形式的に説明するものである。ラカン派と目される合衆国の批評家ジョアン・コプチェクは、この性化の式における「女性の側の式」(非-全体 not-allの論理)と「男性の側の式」(例外よる全体化の論理)とが、カント『純粋理性批判』における第1、第3アンチノミーと(さらには、『判断力批判』における数学的崇高と力学的崇高と)同型であることを明らかにしている。筆者はこうしたラカン派の性差理論を十分に咀嚼したうえでみずからの研究に活かしている。いやむしろ、筆者によるモダニズムの政治=美学をめぐる研究により、性化の式に新たな可能性が見出されたというべきだろう。筆者は、20世紀モダニズム美学の底流となっている、オスカー・ワイルドに代表される英国世紀末審美主義の「観照」の美学に「例外による全体化の論理」を見出し、これがファシズムに結びつく必然性を明らかにする一方、『ユリシーズ』に「not-allの論理」を読み取ることによって、この小説が上記の美学(ファシズム)に抗う論理を持つことを説得的に論じている。以上のような、ラカン派の性化の式という視点からモダニズム(およびそこに内在する政治=美学)を論じた研究は、管見によればきわめて稀である。また、これまで膨大な量が積み重ねられてきた『ユリシーズ』研究においても、性化の式を中心に据えた本書は異彩を放っており、学術的にもきわめて重要な貢献を果たしている。

ジジェクやコプチェクの感想がききたいので、中山さん、ご自身で英訳をお願いします。 
 第八章におけるジョイスと「名前」をめぐる議論については、私は著者と異なる考えをもっていて、大昔に論文にも書いたのですが、この点については次回の「ロ・マン読書会」でお会いしたときにでも。

『共通文化にむけて』

以下、ウラゲツ☆ブログ http://urag.exblog.jp からの転載です。 

共通文化にむけて――文化研究 I
レイモンド・ウィリアムズ著 川端康雄編訳 大貫隆史/河野真太郎/近藤康裕/田中裕介
みすず書房 2013年12月 本体5,800円 A5判上製360頁 ISBN978-4-622-07814-2


★発売済。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。ウィリアムズは日本では60年代後半から単独著の訳書がありますが、再評価の機運が高まったのはカルチュラル・スタディーズの入門書や雑誌特集が増えた90年代後半以降です。その当時はほとんどの既訳書は品切ばかりで、今もその状況は残念ながらあまり変わっていません。そんな中、レイモンド・ウィリアムズ研究会が2005年に発足し、メンバーの皆さんの御尽力によって未訳の主要論文が独自編集版『文化研究』全2巻として刊行されることは、再評価への道筋としてたいへん重要ではないかと思われます。例えば今回刊行された第I巻の巻頭論文「文化とはふつうのもの」(1958年)は半世紀以上前のものですが、民主主義の困難さと可能性をめぐって、今なお現代人の皮膚に突き刺さるような問題提起と分析を呈示しています。この2巻本を機に、既刊書の再刊や文庫化、新訳が進むことを切に願いたいです。


◎レイモンド・ウィリアムズ(Raymond Williams, 1921-1988)単独著既訳書

2010年03月『モダニズム政治学――新順応主義者たちへの対抗』加藤洋介訳、九州大学出版会
2002年08月『完訳 キーワード辞典』椎名美智/越智博美/武田ちあき/松井優子訳、平凡社;2011年06月、平凡社ライブラリー
1985年10月『田舎と都会』山本和平/増田秀男/小川雅魚訳、晶文社
1985年09月『文化とは』小池民男訳、晶文社
1983年03月『長い革命』若松繁信/妹尾剛光/長谷川光昭訳、ミネルヴァ書房
1980年03月『キイワード辞典』岡崎康一訳、晶文社
1972年07月『辺境』小野寺健訳、講談社
1969年12月『コミュニケーション』立原宏要訳、合同出版
1968年12月『文化と社会――1780‐1950』若松繁信/長谷川光昭訳、ミネルヴァ書房;2008年07月復刊

特定秘密保護法案に反対する 

以下のリンクで署名しました。

安倍政権による特定秘密保護法案が衆院本会議で可決されました。77%もの日本の市民が反対しているにもかかわらず、です。安倍首相の主張はこうです:皆さんは選挙で自民党を選びましたが、自民党が何をするかについて知る権利はありません。
新しい法案のもとでは、どんなことでも「機密」扱いにすることができます:原子力に関する決定から裏で交渉が進められるTPP(環太平洋連携協定)などの貿易協定に関する決定まで、さらに極端な例を挙げれば、官僚が使用する事務所の改装費用なども「機密」扱いにできるのです。
法案は数日内に参議院に送付される予定です。自民党は、参院ではみんなの党および維新の会の支持も得たいと考えています。しかし、両党の中には法案への賛否を留保している議員もいます。世論がそんな議員への支持を示せば、法案が法律として制定されることを防ぐことができます。
法律制定を阻止するために残されているのは、わずか数日です。以下のリンクをクリックして、特定秘密保護法案への支持を撤回するよう求めるみんなの党および維新の会宛の緊急署名にご協力お願いします。2万名の署名が集まりましたら、参院における採決までに両党の代表に届けてまいります. 

署名はこちらで。